期末テストで一番になれなかったら死ぬ
「遅い」

 空き教室のドアを開けると、腕を組んだ鹿島くんが立っていた。

「いや何で? ずっと立ってたの? 鹿島くん暇なの?」

 私が首を傾げると、鹿島くんは眉を吊り上げた。

「暇じゃない! 補習は八時半からだろう。何で時間ギリギリに来るんだ!」

「暑くてフラペチーノ飲みたかったから……というかまだ遅刻じゃないよね?」

 スマホを取り出し時刻を表示させる。八時二十八分。ほら、やっぱり間に合ってる。

「五分前には来て準備するもんだろ! それにだ、買い食いしてる余裕なんてないはずだろ。ひまりから聞いたぞ、このままだと卒業できないって!」

「そんな大袈裟な……え、さすがに留年とかしないよね?」

「追追試で駄目なら可能性あるんじゃないか」

 フラペチーノのカップを手近な机に置き、両手を揃え、深く頭を下げる。

「助けてください」

「初めからそう言えばいいんだ」

 と、鹿島くんは少し得意気に鼻で笑った。

 勉強道具を広げた鹿島くんの席、そのすぐ隣に座る。教えてもらうなら、こうした方か効率がよいからだ。他意はない。

「……」

「……」

 壁の穴から聞こえてくるクーラーの唸り声。シャープペンを走らせる音。「ん」と小さな咳。分厚い辞書を捲るときの滑る音。

 おかしいな。教えてくれるはずの鹿島くんが自分の世界から出てこないぞ?

「ねえ、鹿島くん」

「何だ」

 隣の席の優等生は、顔を上げず声だけで応えた。

「勉強を見てくれるのでは、ないのでしょうか」

「は?」

 横からでも分かる。鹿島くんの眉間にしわが寄っている。

「いや、『は?』ではなくですね、安曇がそう言ってたし、鹿島くんもやるって……」

「始めてもないものを見られるか! 課題のプリントは? もらってるんだろ?」

「うん、あるけど」

 先生からは、一週間分の自習用プリントをもらっている。補習期間中は毎日学校に登校してこのプリントを片付け、週に一回提出するよう言いつけられている。毎朝毎夕職員室に顔を出す必要はないが、時々抜き打ちで出席をチェックするそうだ。

 鞄から一週間分のプリントを取り出すと……ついてない。数学が一番上になっていた。妙な形をした数式が紙面をのたくり回っている。

「先生、見たことない記号が書いてあります」

「そんな訳あるか! 補習だぞ? 全部授業でやってるだろ」

「不思議だね」

「……」

「そんな目で見ないで! 諦めないで! これほんとにヤバいって、自分でも分かってるんだから」

「……教科書の範囲、どうせ分からないだろ? 教えるから、まずは自分で考えて、何が分からないのかはっきりさせろ。それができてから僕に訊け」

 それから鹿島くんは数学ⅡB、化学に世界史と一学期の範囲を教えてくれた。驚くべきことに、鹿島くんは全教科の教科書を持ってきていた。鞄の紐が千切れるのでは、なんて心配になる。私は教科書なんて一冊も持ってきていない。鞄は長持ちさせたいので仕方ない。

 鹿島くんは、試験範囲はこのページからこのページまでと示すだけでなく、数学の単元だったらどういう考え方をするとのか、世界史だったら出来事の経緯まで説明してくれた。簡潔で分かりやすく、丁寧。この人は頭がいいだけでなく、他人に気を遣える人なんだなと思った。

 そんなふうに説明を受けていたら、あっという間にお昼になった。

 鹿島くんは鞄からお弁当箱を取り出した。ちらりと横目で覗く。二段重ねで、下の段には雑穀米、上の段には切り干し大根や里芋の煮っころがし、ほうれん草のお浸し等が入っているようだった。

 色が薄くて、手間がかかっていて、健康によさそう。それがパッと見の印象だった。間違いなく手作りだろう。

 それに引き換え私のは……何というか全体的に茶色い。可能な限りに手を抜き、自分の好きなものを詰め込んだだけのお弁当だ。

「……君も、お弁当をつくってもらってるのか」

 と、鹿島くんが尋ねてくる。

 君も、ということは、そのお弁当は親御さんの手作りか。鹿島くんは大事にされている。

「ううん。自分で用意してるよ」

 私がそう答えると、鹿島くんは透視でもするかのようにお弁当箱を見詰めた。

「偉いな。大したもんだ」

「残り物と冷凍食品詰め込んだだけだよ。お父さんの……ううん、母が仕事で忙しいから」

 何気なく口にしようとした言葉を、私は慌てて飲み込んだ。お父さんの奥さんだなんて。それを聞いた鹿島くんがどう思うか。そして、もしも季帆さんが聞いたら何を思うだろう。だから止めた。

 代わりに発した『母』という言葉。

 どちらが……いや、何が正解だったのだろう。分からない。

「鶴崎さん?」

 ふと気づけば、鹿島くんが怪訝な顔で私を見ていた。

「どうかした? さて、いただきます。お腹空いちゃった!」

 ちょっと雑に誤魔化して、お弁当箱の蓋を開ける。箸を手に取りながら、ふと思う。そういえば、名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。軽く流してしまった。

 ……まあ、いいや。とにかく食べよう。午後はまだ長い。冷凍したまま詰め込んだ唐揚げは、夏の熱で溶け、ほんのり温かみを帯びていた。

 午後も、鹿島くんは試験範囲の解説を続けてくれた。「これ、どういうこと?」「意味が分からない」と首を傾げる私に、鹿島くんは「いつから授業を聞いてなかったんだ」と呆れながらも、懇切丁寧に一年生の範囲まで遡って解説をしてくれた。

 夕方、鹿島くんが帰るというので、私は空き教室の鍵を受け取って彼を見送った。

「明日は五分前に来いよ」

「うん。カフェが混んでなければ大丈夫」

「だから寄り道するなって!」

 鹿島くんが帰り、私は空き教室に一人残された。ここ特別棟は、南側に聳える一般棟の陰になっている。日は差さないし、グラウンドの喧騒は届かない。でも、反射した夕日の赤味も、吹奏楽の音合わせも届いている。一人ではあっても、独りではない。そう思えた。



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