期末テストで一番になれなかったら死ぬ
 吉祥寺駅からバスに乗り、くじら山病院へと向かう。前回は雨の中だったが、今日は快晴で、もう九月だというのに気温だけはまだ夏の暑さをそのままに残していた。

「最近、またよく来るね」

 病院では、受付のお姉さんに声をかけられた。

「友だちが入院してるんです」

 来訪者名簿に名前を書きながら応える。

「そっか。ありがとう」

 お姉さんはそう言って微笑んだ。

 『ありがとう』。他に適切な言葉がないのだろう。『来てくれてよかった』、『もっと来て』、『元気を出して』、『頑張って』。どれもきっと、誰かの心にとっては重荷となる。だから、お姉さんは『ありがとう』と微笑むのだ。

 その優しさを、お姉さんは仕事でつくっているのだろうか。

 もしそうでないなら、お姉さんはどこから補充しているのだろう?

 お姉さんが枯れきってしまわないことを願い、

「ありがとうございます」と私は返事をした。

 鹿島くんの病室をノックしようというところで、私は今更ながらに気がついた、

 もしかしたら、安曇がいるかもしれない。

 もしかしたらというより、ほぼ確実にいるだろう。病室にいるところを見たのは前回が初めてで今の所最後だ。その様子を見たのは一回きりだったけれど、それでも断言できる。安曇は、許される限りの時間を、病室で鹿島くんと共に過ごすために費やしている。

「……だから?」

 敢えて口に出し、自分に問う。

 だからどうしたというのだ。安曇が居ようが居まいが、私には関係ない。私は借りたものを返しに来ただけ。これは私と鹿島くんとの話なのだから、安曇がどうこう言うことではない。

 こんこん、とドアをノックする。

 中からは「どうぞ」と返事があった。鹿島くんの声だ。

 横開きのドアを引き開ける。

「よう、君か」

 と、鹿島くんはいつかのように片手を挙げた。

 病室の中に安曇の姿は見当たらない。ほお、と聞こえない程度に薄めて息を吐く。

「久しぶり。勉強はちゃんとしているようだな」

 鹿島くんは手にしていた本を閉じ。脇の机に置いた。その表紙には見覚えがある。武者小路実篤の『友情』だ。以前に吉祥寺図書館で借りていたものだろう。背表紙にシールが貼り付けられている。

「そんなに間空いてないよ。先週も来たし」

「そうだったか?」と、鹿島くんは首を傾げた

「ここに居ると退屈なんだ」

 思えばお父さんもそうだった。

 私が一週間ほど空けてお見舞いに行くと、お父さんはいつも『久しぶり』と言った。私にとっては月曜から土曜までの学校に通う一週間を一回を挟んだだけの『すぐ』だったけれど、入院しているお父さんにとっては、何もない一日を七回、何もない一時間を一六八回繰り返した後の
『遥か昔』だったのだ。

「せっかく来たんだ。ゆっくりしていくといい」

 鹿島くんはそう言って微笑んだ。

 その表情や口調も、お父さんを想い起こさせる。鹿島くんとお父さんは全くの別人なのに。似ても似つかなかったのに。かつての鹿島くんはどこへいってしまったのか。攻撃的で、いつも何かに焦っていた鹿島くんは……。

「ねえ、鹿島くん。勉強はしてないの?」

 今、彼の手許の机には『友情』一冊が置いてあるのみで、教科書もノートも見当たらない。

「うん? ……ああ、退院したらまたやるさ」

「入院中は、安静にしてろって?」

「そういうわけでもないんだがな」

 と、鹿島くんは窓を見た。空が気になったわけでもないだろう。

「今は、少しいいかなって」

 それもまたお父さん!

 ベッドの上でただ時間が過ぎるのを待って、何もしないで、家から本でも持ってこようかと訊いても『今はいいよ』と答えて、退院した後の話をするときには外を見て! 気づいていないとでも思ってるの? 窓ガラスに映ってるのに。下を向いた目が、歪んだ口許が、諦めたようなその顔が!

「……今日はこれを返しに来たの」

 鞄から例の箴言メモを取り出し、鹿島くんの目の前に掲げる。

 彼はちらりとメモを見遣ったが、すぐに目を背けた。

「僕にはもう必要ない」

「もうって」

「必要なのは君のほうだろう。追追試は終わっても、まだ先があるはずだ。進級して、卒業するんだろう? 言っていたじゃないか。心配をかけたくないと」

「鹿島くんにも必要でしょう! だってこの先中間テストも期末テストもあって!」

 メモを突き出す。鹿島くんはそれを見ても尚、受け取ろうとはせず、ただ小さく「まいったな」と呟いた。

「……僕はもう頭に入っている。だから必要ないんだ」

 そして、そんな分かりきった嘘を口にした。

 鹿島くんの目は語っていた。

 『そういうことにしておいてくれ』と。



 外に出ると、強い日差しに包まれた。

 来たときよりも日が高くなっていた。立ち並ぶ街路樹からセミの声が聞こえた。八月のあの頃に比べると、音圧は随分と落ちている。

 歩道を少し歩くと、汗が出てきた。

 九月という暦上の文字に夏のイメージはないが、空はまだ自分が夏であると主張している。

 バス停を通り過ぎる。

 待つのが面倒だし、時刻表を見るのすら面倒だった。

 小走りになる。

 吸い込む息が熱い。

 汗が吹き出る。

 後ろから来たバスが、私を追い越していく。

「ああああああああ!」

 その大きな音に隠れて叫ぶ。

 バスを追い、走る。

 全力で走る。

「……げほ、はあ、はっ、はあ」

 排気ガスを吸い込み、咽る。

 それでも走る。

 早く。早く。

 身体の内側から湧いてくる熱が、私の足を動かした。




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