期末テストで一番になれなかったら死ぬ
 十月中旬の月曜日。

 その日の朝も、私は机で朝を迎えた。

 毎日同じ時間に鳴るアラームで目を覚ましたとき、まず真っ先に感じたの身体の重さだった。寝落ちした翌朝に特有の、筋の強張りとは少し違う感覚だった。

 立ち上がろうとするが、目眩。足許がふらつく。背筋に悪寒が走る。喉はいがらみ、洟が出る。

 嫌な予感が吹き上がる。十中八九間違いない。

 これは、風邪だ。

 よりによって中間テストのこの朝に!

 最近は夜、窓を開けて勉強をするのが習慣になっている。暑さが残るうちはよかったけれど、季節はいつの間にか夏を過去にしていたみたい。

 体調管理でしくじるなんて、鹿島くんが知ったら叱るだろうか?

 ……駄目だ。そんなことを考えている場合ではない。

 体温を計ろうか、とも思ったがやめておく。熱があると自覚するのはまずい。

 いや、もう自覚してるけど。

 でも体温の数字を見たら多分もう駄目だ。だから見ない。

 咳も洟もいい。関節が痛いのもまあいい。でも頭痛だけは勘弁して欲しい。

 確か常備薬がどこかにあったはずだ。リビング、いや、お父さんたちの寝室だったか。

 ……駄目だ。頭がうまく回らない。

「あ、舞夕ちゃん。おはよう」

 台所には何故か希帆さんが立っていた。

「え、希帆さん。何で?」

 焜炉に向かう希帆さんの背中に問いかける。

「んー? 言ってなかったっけ。今日はお休みだよー」

 じゅうじゅうと、油の音を背景に希帆さんが答える。

 あれ、そうだった? 

 ……ん、確かにそんなこと聞いたような気がしなくもない。

 ぼんやり見ていると、希帆さんはフライパンを持ち上げ、焼き目の付いたトーストの上に目玉焼きを載せ、お皿をテーブルへと持ってきた。そしてコーヒーメーカから熱いコーヒを注いだ。

 それから私を見て、僅かに目を大きくした。

「……はい、舞夕ちゃん。先食べてて」

 と、希帆さんは椅子を引いて私を座らせてからキッチンを出ていった。

 トーストに伸ばしかけた手を引っ込め、コーヒーカップを手に取る。食欲がない。胃には何か入れたいし、目も覚ましたい。だからコーヒーだけはせめて。コーヒーを口に含むと、済んだ苦味が口に広がる。飲み込むと、喉から胸、胸からお腹へと温かみが広がっていく。

「はい、これ」

 戻ってきた希帆さんは、各種お薬を私の前に広げた。

「咳は出る? 洟は? 頭は痛い? 熱はあるよね。でも風邪薬は飲むと眠くなるからなー」

 と、希帆さんはああだこうだとお薬を手に取っては除けていった。

「とにかく頭痛だねー。頭ぼやけてるときついもんね。解熱鎮痛剤だったら飲んでもそんなに眠くないから、今はそれだけ飲んで、帰ったら風邪薬飲んで、温かくして寝よっか」

 希帆さんは「それがいいねー」と頷いてお薬を選び、コップに水を汲んできてくれた。

「ねえ、希帆さん……」

 私が呼ぶと、希帆さんは「うん?」と微笑んだ。

「舞夕ちゃん、今日がテストだよね?」

 私が黙って小さく頷くと、希帆さんは私の前の席に腰掛け、顎を両手に乗せてこちらを見た。

「……休めって言わないの?」

「言って欲しい?」

 首を横に振る。強く振る。

「うん。だったら言わないよ。舞夕ちゃん、最近すっごい頑張ってたもんねー。休む気なんて全然ないでしょ」

 熱のせいだろうか。目許が熱い。

 誤魔化すようにお薬を手に取り、コップの水で一気に飲む。

「行ける。平気」

 私が強がると、希帆さんは眉を下げて、

「やっぱり親子だなあ」
 と笑った。

「行洋さんもね、そうだったよ。大事な朝ほどボロボロでね。それでも絶対行くって聞かなくて」

「……知らなかった」

「娘にはかっこつけてたんじゃない?」

 と、希帆さんは肩を竦めて見せた。

 制服に着替え、玄関でローファーを突っかけていると、希帆さんが「これ付けてって」と薄手のマフラーを首にかけてくれた。

「寒気がしたら巻いてね」

「……温かい。ありがとう」

 玄関のドアに手をかけ、振り向く。

「ねえ、希帆さん」

「うん?」

「私の中にお父さんを見つけるの、辛くない?」

 壁に寄りかかった希帆さんが、「うーん」と首を捻る。

「……辛くない、って言ったら嘘かな」

「そう、だよね」

「もう居ないんだなーって思うのは確かだよ」

 そして希帆さんはサンダルに足を載せ、私の頭に手を伸ばした。

「でも平気。行洋さんは舞夕ちゃんの中にいて、私の中にもいて、思い出すのはいつも頑張ってる姿で……だから私も頑張れる」

 何か言おうと、何かを言いたくて、口を開く。

 でも言葉は紡げなくて、声にならない気持ちだけが音になって。

 そんな私を、希帆さんはそっと抱きしめた。

「私も舞夕ちゃんも、行洋さんにはなれない。でも、お互いがお互いの励みになれたらいいな」

 その背中に手を回せなくて、私は心底自分が嫌になった。

 希帆さんはゆっくりと身を離し、私の肩に手を置いた。

「……今日は早く帰ってきてね。史上最高に甘やかすから!」

 もうこれ以上優しくしないで。

 そんなこと、口が裂けても言えなくて。

「……行って来ます」

 だから私は、今の私の精いっぱいで、どこへ行っても今は必ずここに帰って来ると誓った。



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