この恋がきみをなぞるまで。


学校から書道教室までは近くを通るバスがあって、大して待たずに乗れた車内で涼花にメッセージを送る。

なんで桐生?⠀って涼花の疑問はごもっともで、連絡先を知っていることに関しても色々と言及はされたけれど、次に会ったときに話すと伝えた。

話すほどの事情もないことを後から気付いたけれど、文字に起こす気にはなれなくて、バスに揺られながら目を閉じる。


鞄の中に入れている手土産は、先生の好物の羊羹だけれど、食べられるだろうか。

食事の制限があれば食べられないかもしれない。

変わっていないといいな。


目を開けると、何となく見覚えのある道を走っていて。

普段この路線のバスには乗らないから、バス停を乗り過ごしそうになって慌てて降りた。


開いた門を潜って玄関のインターホンを押すと、すぐに恵美さんが出てくる。


「いらっしゃい、芭流ちゃん!」

「こんにちは。あの、これ羊羹なんだけど、先生食べられる?⠀だめだったら恵美さんたちで食べて下さい」

「ええ、もう、いいのに。食べられるよ。おじいちゃんに渡してあげて」


お茶の用意をしてすぐに行くから、と恵美さんが向かったのとは真逆へと歩く。

ひんやりとした廊下を踏みしめて、奥の部屋の襖を叩く。


「どうぞ」


嗄れた声が部屋の中から聞こえて、スパンっと音が鳴るほど勢いよく襖を開ける。

この声を聞いたら、いてもたってもいられなかった。


「襖は静かに開けなさい」

「先生……!」


傍らには布団を敷いたままにしてあるけれど、先生は起き上がって文机に向かっていた。

線が細くなって、顔には紫斑が浮かんでいるけれど、眼光は昔と変わらずに鋭い。

この目に捕まると、城坂くんでさえ逃げられなかった。


「先生、先生」

「先生先生やかましい。もう生徒はおらん」

「わたしの先生は、先生だけだから」


わかる?⠀覚えてる?⠀と聞くのは失礼な気がして、何より覚えていないと言われたらショックだから、なかなか名乗れずにいると、恵美さんがお茶を持ってやってきた。


「おじいちゃん、芭流ちゃん、大きくなったでしょう?」

「あ……」


先に恵美さんに言われるとは思わなくて、恐る恐る先生を見遣る。

文机に置かれたばかりの熱いお茶をすぐ手に取ったあと、湯のみを口元に運ぶ途中で、止めた。


「……芭流か」


わたしに呼びかけたというよりは、確認するように名前を呼ばれて、小さく頷く。

先生は湯のみを飲まないまま置いて、何か考え込むように瞼を下ろした。

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