人魚な王子
第9章

第1話

 水泳部のプール使用が解禁されたとかいう日は、よく晴れて日差しも強い日だった。
海にいたころには知らなかった汗も、大量にかく。
なんだが自分の体がベタベタして臭うようで、気持ち悪い。

 その日の奏は、朝からうれしそうにしていた。
岸田くんもだ。
プールの始まるのが、よっぽどうれしいらしい。
奏がうれしいのなら、僕もうれしい。
だから、寂しいと言った彼女のことはまだ気になっているけど、今がそうでないのなら、よかった。

 放課後が来ると、奏は一番に教室を飛び出した。
奏の向かった先は分かっている。
僕は奏との約束で声をかけたくても話しかけられないので、急いで彼女の後を追いかける。
岸田くんも一緒に飛び出した。

「やっとこの日が来たぜ、宮野!」

 彼まで上機嫌で、走っちゃいけない廊下を走っている。

「よかったね」

 僕がそう言うと、岸田くんはなぜかちょっと驚いたような顔をした後で、すぐに笑った。

 先にプール前広場に来ていたいつも不機嫌な感じのいずみも、珍しく楽しそうにしていた。
今日は水泳部の他の人間たちの様子も違うし、行動も違う。
更衣室に入り、いつものジャージに着替えようとした僕に、岸田くんは何かを投げてよこした。

「宮野、今日からはこっちだ。いずみが注文してくれていたやつが届いてるぞ」

 渡されたのは、ツルツルの生地で出来た、丈の短いショートパンツだ。

「え? なにコレ。ヤダよ」

 この狭い部屋で毎日のようにみんなと一緒に着替えていたから、裸の自分でも見た目は人間の体になっているのだということに不安はない。
だけど、他の服を全て脱ぎ捨て、この一枚だけになってしまうのには、さすがに抵抗がある。

「早くしろ。みんな同じようなの着てるぞ」

 確かに、岸田くんもそうだし他の連中も同じように上半身は裸のまま、膝上までのぴったりとしたパンツ一枚になっていた。
人間というものは、本当に見た目を揃えるのが大好きだ。
僕は仕方なく、同じ格好になる。

「なにコレ、きついんだけど」
「それでいいんだよ」

 この黒くてつるつるした生地は肌に吸い付きピチピチしすぎていて、ちょっとどころではなくかなり着心地が悪い。
もたもたしている僕を残して、他の人間は全員、いつも使わない更衣室の奥の扉から出て行ってしまった。
それにしても、いくらなんでもほとんどハダカな感じで外に出るなんて、恥ずかしすぎない? 
まぁ人魚だった頃は、そもそも服なんて着てなかったんだけど。

 鱗のなくなった柔らかい生まれたての肌を、そのまま晒しておくなんて出来ない。
僕はいつもいずみが用意してくれているタオルを手にとると、それで全身をくるんだ。
きっと、さっきみんなの出ていったこっちの扉から外へ出ないといけないんだよね。
ドアノブに手をかけ、重たいそれを押し開けると、コンクリートの狭い通路に出た。

 壁の向こうからは、楽しそうに騒ぐ声が聞こえる。
そのなかに奏の声もあることを確認してから、僕はそこを通り抜けた。
出来たての足が、焼け付くような日差しで熱くなったコンクリートに焼け出される。
地下牢のような通路を抜けると、視界は一気に広がった。

 キラキラとした眩しいほどの光を浴びて、透明すぎる水が輝いていた。
プールというのは、大きな器に入れた綺麗な水のことだったんだ。
だけどこんな小さな水たまりを、奏たちはずっと待ちわびていたのだろうか。

「あぁ。だからみんなで掃除したんだ」

 あのドロドロと汚かったプールは、すっかり生まれ変わっていた。
そのプールサイドで、簡単なストレッチが始まっている。
なんだ。
結局、この小さな水たまりにきれいな水を張っても、することはいつもと同じじゃないか。
わざわざ裸でやる意味が分からない。
暑いし変なショートパンツにまだ慣れないし。
僕は大きなバスタオルにすっぽり身を包んだまま、みんなの一番後ろの隅っこでストレッチをする。
男子はみんな僕と同じような格好をしていて、女の子の方は体にピタリとした胴体だけにこのヘンな布を貼り付けたような服を着ている。
奏もそうだ。
だけどいずみだけは、いつもの紅藻色のジャージで、小さな日陰に入り何かの作業をしていた。
いずみはいいな。
この体操が終わったら、今日は僕はいずみのそばで休もう。
夏になりたての日差しは直接肌に当てると体が痛い。

「おっしゃ、行くぞ!」

 岸田くんの一声に、水着というらしい服一枚になった部員たちが、一斉に水へ飛び込んだ。
彼らはバシャバシャと水しぶきをあげ、水面にずっと体を浮かべたまま前に進む。
あぁ。そういえば、人間はこういう泳ぎ方をするんだった。
いつも遠くから見ていた光景が、目の前にある。
それを少し眺めていただけで、自分のものになったばかりの二本の足の裏が、焼けるように熱くなったことに、ちょっと怒っている。
階段状になったコンクリートの上に上がると、いずみのいる日陰に寝転がった。
彼女はどこからか出してきた細々とした色んなものを並べその数を数えていたけれど、その手をとめる。

「宮野くんは泳がないの?」
「どうして?」
「いや、こっちが聞いてるんだけど」
「気分が悪いんだ」
「体調悪いの?」
「ちょっと違う」

 それは、体を締め付けるぴちぴちした水着のせいだけじゃない。
この臭いだ。
きれい過ぎる水からたちこめる異臭に、頭が痛くなる。

「汚いプールよりかはマシだけど、きれいなプールもやっぱり臭いよね」

 いずみはうんざとした様子で大きく息を吸ってから、思いきり吐き出した。

「あのね、そういうとこ」
「なにが?」
「奏が怒ってるの」
「え! 奏が怒ってるの?」

 もっと詳しく聞きたいのに、いずみはフンと鼻をならしただけで、どこかへ行ってしまった。
僕はこの小さな日陰から動きたくないから、まだここにいる。
鼻をつく酷い臭いに痛む頭と、照りつける夏の日に火照った体で、水たまりを見下ろす。
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