人魚な王子

第3話

「用意、スタート!」

 本当はこんな臭う水なんかで、泳ぎたくはないんだけど。
いずみの合図で、それでも僕は真っ直ぐ伸ばした腕から、水中へ飛び込んだ。
浅すぎて水底まで届く光に、視界は良好だけど、目がやたらヒリヒリする。
やっぱりこの水は、なんかヘンだ。
まばたきを一つする間に壁までたどり着くと、そのまま水中で方向転換して、もとの位置へ戻る。
そうだ。
僕はもう人魚ではないから、人間みたいに頻繁に呼吸をしなくちゃいけなかった。
息継ぎをしようかとも思ったけれども、ゴールも近いし面倒くさいからやめる。
そんなことより、早くこの水から上がりたい。
スタート地点の壁に手をついてから、水面に顔を出した。
特に息は苦しくならなかったけど、それでも潜っていられる時間は、以前よりだいぶ落ちているようだ。
水から上がった僕に、いずみはぼそりとつぶやいた。

「ねぇ、信じられない記録なんだけど」

 見ていた岸田くんは、イラついたように舌を鳴らす。

「ふざけんな。あんなドルフィンキックだけのバサロでいくら泳いだって、ダメに決まってるだろ」

 タオルで臭い水を拭いている僕に、岸田くんは詰めよった。

「お前、今まで本当に泳いだことなかったのかよ」
「え。ないよ」
「は? 喧嘩売ってんのか。マジで誰にもなんにも教わってないんだな」

 僕にはどうして、岸田くんが怒っているのかが分からない。
だって、人間になってからの話しだよね。
人魚の時のことは関係ないよね? 
大体僕は、あんな変な泳ぎ方なんて、したことない。
不安になって奏を振り返る。

「いいの! いいのよ、宮野くん。今はこれでも、これから覚えればいいんだから、それでいいじゃない」

 むき出しの腕に、不意に奏の手が触れた。
僕はそれにびっくりして、触れられたその部分だけが、僕の肌ではなくなったみたいになる。

「ね。これから一緒に、泳ぎ方を覚えよう。私が教えてあげる」
「う、うん」

 彼女にそんなことを言われて、逆らえるわけがない。

「本当に奏が教えてくれるの?」
「教える。教えてあげる!」

 陸に上がってから初めて、奏が本当にうれしそうな顔を僕に見せてくれた。

「今からちゃんと、練習しよう!」

 僕はその瞬間、この臭い水も熱いコンクリートも、ちゃんと我慢することに決めた。
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