人魚な王子

第4話

「根元から?」
「そう。下半身が下がるのが、もう少し浮いてくると思う」
「あ、ありがとう」
「僕が見ててあげるよ。やってみる?」
「う、うん!」

 奏が一生懸命に水を跳ね上げ泳ぐ姿なら、いくらでも見ていられる。
彼女のどんな質問にだって、何だって答えてあげる。
バシャバシャ飛び散る水しぶきだって、彼女のものなら可愛らしいと思える。

「すごい! 宮野くんの言う通りにしてみたら、ずいぶん体が軽くなった! 楽に前に進めてる!」
「よかった」
「うれしい! ありがとう」

 奏が喜んでいる。
奏にそう言ってもらえるのなら、僕はこんな臭い水の中だって平気。
戻って来た彼女の手を取り、その指先にキスをする。

「大好きだよ奏。僕のことも、好きになってくれる?」
「あー。そのことなんだけど……」

 彼女は僕に取られた手を、スッと引き抜いた。

「私、他に好きな人がいるから。ごめんなさい」
「それは岸田くん?」
「そ、そうだね」
「僕も岸田くん好きだよ。奏と一緒だね」
「はは。そうだよね。よかった」

 奏は困ったように顔を背ける。
奏が岸田くんを好きでも、僕のことも好きになってほしいんだ。
ふと顔を上げると、その岸田くんと目があった。
僕は彼に大きく手を振る。

「おーい! あのね、僕と奏は、二人とも岸田くんのことが……」
「ちょーっと待って!」

 急に彼女に腕を掴まれ、ビクリとなった。

「ねぇ、それを言う時は、私から直接岸田くんに言いたいの。だからそれまでは、岸田くんにも他の人にも、誰にも内緒にしておいてくれる?」
「奏が岸田くんを好きってこと?」
「そう!」
「分かった。いいよ。ちゃんと約束する」

 僕の肌に触れたまま離れない彼女の、手の平からの熱をずっと感じている。
また一つ約束の増えたことがうれしい。
そうやって仲を深めていけばいい。
僕たちのところへ、岸田くんはぽちゃんと飛び込んできた。

「なぁ、宮野。俺にも泳ぎ方教えてくんない?」
「やだよ」
「なんで」
「奏だけ特別。もう今日はお終い」
「は? 何だソレ!」

 彼は一人で勝手にぷりぷり怒っているけど、そんなことは知らない。
無視してぷかぷか浮いていたら、そのうちどこかへ行ってしまった。
他の部員たちのところへ行ってなんかしゃべってるけど、そんなこともどうだっていい。

 僕はビート板に浮かんでにこにこしながら、奏の泳ぐ姿だけを見ている。
水泳部が楽しいと思えたのは、初めてだ。
立ち止まった彼女に手を振ったのに、見えなかったのか気づかなかったのか、反応はなかったけど、それでも僕の教えたことを一生懸命やろうとしてくれているから、僕を忘れているわけじゃない。
そうやって僕はぷかぷかしながら、ずっとのんびり奏を楽しんでいる。

 その日の部活を終え更衣室を出たら、いつものようにすぐ前の広場に奏と岸田くんがいた。
まだ少し髪の濡れている奏は、明るい西日を受けながらなんだかもじもじしていて、そんな彼女に岸田くんは熱心に何かを話している。

「だからさ、奏からアイツに頼むよ。別にお前が損する話しでもないだろ」
「それは分かってるよ。宮野くんから私だけ教えてもらってるってのも、それはみんなのためにならないって思ってるし。みんなも直接教えてほしいよね。私だって水泳部全体のためになればって思う。だけど私は、宮野くんとは特別でもなんでもなくて……」

 そう言って見上げた奏を、岸田くんはムッと見下ろした。

「だから、なんだよ」

 そう言われて、奏はまた恥ずかしげにうつむく。
もしかして奏は、岸田くんに好きだって伝えたのかな。

「何の話してるの?」

 近づいた僕に、岸田くんは顔を上げる。
彼が何かを話そうとした瞬間、奏はそれを止めた。

「わ、私ね、岸田くん。宮野くんに、岸田くんのことが好きって言っちゃった」
「は? 何それ」
「だから、その……。そういうことに、しておいてほしい……」

 奏は顔を真っ赤にしてうつむく。
岸田くんは彼女からの告白を、戸惑う様子もなく静かに聞いていた。
そんなこと、まるでずっと前から知っていたみたいだ。

「今の話は、それとこれと関係ないだろ?」

 奏は顔を真っ赤にしたまま、うつむいて動かなくなってしまった。
岸田くんはイライラと、その茶色いサラサラした髪をかきむしる。

「だけど奏、それは……。そんなふうに思う必要はないからって、ずっと……」

 彼の言葉が終わるより先に、奏は僕を振り返った。
いつものよりにっこりと、彼女は丁寧に微笑む。

「ね。だから、宮野くんゴメンね」
「なにが? 僕も岸田くん好きだよ。奏が好きなものは、全部好き」
「そっか。ならいいんだ。だけど私は、そういうのじゃないから」

 奏は今度はゆっくりと、だけど真っ直ぐに岸田くんを見上げた。

「海に溺れた私を助けてくれたこと、すごく感謝してる。だから好きになったってワケじゃなくて、前からもずっと、そう思ってたから」

 そう言った奏は、じっと彼を見上げていた。
そんな彼女に、岸田くんはゆっくりと言葉を選ぶように話す。

「お前の気持ちは……。その、うれしいけど。俺だって、お前のことは嫌いじゃない。どっちかっていうと、俺だってその……。だから、なんていうか……」

 岸田くんの目が、チラリと僕を気にして向けられた。
それからもう一度奏に向き合うと、意を決したようにすうっと息を整える。

「悪いけど、お前とは付き合えない。俺はいま、そういうことを考えてないから」
「大会が近いから?」
「それもある。だけど、それだけじゃない」
「私とは、付き合えないんだ」
「……。悪いな」
「そっか。ありがとう」

 それを言い終わった瞬間、奏は走り出した。
短いスカートの裾が、パッとひるがえる。
僕にはそんな彼女が、いま泣きながら走っているような気がした。
放ってはおけない。

「待って!」

 急いで追いかけようとした僕の腕を、同時に岸田くんが掴む。

「お前もちょっと待て!」
「何がだよ。放せ!」
「放さねぇよ。いいからちょっと聞け」

 どれだけ振り払おうとしても、押しのけようとしても、力ではどうしたって彼には敵わない。
奏を追いかけていきたいのに、僕はここから動けない。
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