人魚な王子

第2話

 そうこうしているうちに、女子の400mメドレーが終わった。
次が男子の400m個人メドレーだ。
この学校では、岸田くんが最初の出番になる。
じっと見ていると、プール脇の通路から、彼がゆっくりと歩いて出てきた。
事前にいずみから渡された紙にかかれた通りの、決められたレーンに入る。
4番のところだ。
選手が出そろったところで、長いホイッスルが鳴る。
飛び込み台の上に上がった。

「スタートの横にいる人を、よく見ててね」

 いつもその役は、いずみか別の部員がやっている役。
よく分からない言葉が、突然出てくるやつだ。
その審判長とかいう人が、水平に片手をあげた。
笛がなったら、スタートの合図。

「ピッ!」

 その合図と同時に、選手は一斉に飛び込んだ。
この広い会場中に響き渡るような笛の音だ。
横一列に水しぶきが上がったと思った瞬間、深く潜り込んだ体はぐんぐん進んでゆく。
最初はバタフライ。
岸田くんの泳ぎは綺麗だと前から思っていたけれど、やっぱり他の人間と比べてみても、とても綺麗だった。

「岸田くん、速いね」
「うちのエースだもん」

 いずみはうれしそうに笑う。
くるりとターンして、もう一度バタフライ。
岸田くんのスピードは落ちない。
次のターンのところで、2位の選手が迫ってきた。

「あぁ! 岸田くん、頑張れ!」

 こんな遠くからじゃ、絶対に彼に届いてないことは分かっている。
だけど声に出さずにはいられない。

「がんばれー!」

 ターンと同時に、背泳ぎに変わる。
よくもまぁこんなに、色んな泳ぎ方ができるもんだ。
しかも好きなように泳いでるんじゃない。
手の回し方とか、色々と面倒くさい決まりが細かくあるってのに。
岸田くんが追いつかれた。
2位と3位の選手に並ぶ。

「追いつかれちゃったよ!」
「大丈夫、次の平泳ぎとクロールで、取り返すから」

 くるっとターン。ほぼ3人が横並びになった。
それでもわずかに、岸田くんがリードしている。

「あぁ、がんばれ……」

 これはこれで、見ている方はとても落ち着いていられない。
握りしめた手が、じんわりと汗をかく。
背泳ぎから平泳ぎに変わった。
ターンからの伸びで、岸田くんが他より半身ほど先に出た。

「ね、ターンがどれだけ大事か、よく分かったでしょ」
「分かった分かった。もっと真面目に、ちゃんとするようにするよ」

 岸田くんが他のどの部員より、練習していたのを知っている。
そうか。
だからみんな、今日のために筋トレしたり練習したりしてたんだ。
のんびりビート板に浮かんでる場合じゃなかった。
400mメドレーは一番きつい種目だから、あんまり泳ぐ人がいないって。
だから、勝てる可能性も高くなるって。
岸田くんはそう言って、短い距離を他の部員に譲り、自分が一番しんどい種目に出ている。

 次のターン。
平泳ぎに変わってから、背泳ぎの時より少し余裕が出来たとはいえ、すぐに抜かされてしまいそうな距離だ。
自分が泳いでいるわけでもないのに、なんとも言えない苛立ちと焦りが押し寄せる。

 岸田くんに疲れが出てきたのか、平泳ぎ最後のターンで、また3人が並んだ。
水面に浮かび上がった時点で、ほとんど差はない。
岸田くんの腕が水面に肘から上がって、真っ直ぐ前に伸びる。
そのターンでのひとかきが、彼の始まりの合図のようだった。
自由形といわれるクロールに泳ぎが切り替わったとたん、彼はあっという間に他の人間を後ろにおいていく。

「やった! 岸田くんが抜いてったよ!」

 興奮してしまった僕がつい叫ぶと、周りにいた部員たちは笑った。

「はは。宮野がそんなに、岸田のこと応援してくれるようになるとは思わなかったよ」
「俺たちの時も、それくらい応援してね」
「えっ? う、うん……。もちろん応援するよ」

 そんなことを言われて、逆になんだか急に恥ずかしくなって、自分の顔が赤くなっているのが分かる。
思いがけない言葉に驚いている僕の隣で、いずみは無邪気に笑った。
岸田くんはそのまま逃げ切り、無事1位でゴールを決める。
僕は思わず立ち上がった。

「おめでとう! 岸田く~ん。やったー!」

 大きな声で、岸田くんに向かって叫ぶ。
拍手をして両手をぶんぶん振っていたら、岸田くんはちらりとこっちを見ただけで、特に反応を返してくれない。

「あれ? 聞こえてないのかな」

 そう思って、また彼に向かって叫ぶと、いずみに笑いながら止められた。

「きっと後で、岸田くんに怒られるよ」
「なんで?」
「恥ずかしいからやめろって」

 なんだそれ。
応援されるのが恥ずかしいだなんて、なんだか変わってる。
なんだよ。
人間ってのは、みんな照れ屋さんなんだな。
僕は仕方なくそこに腰を下ろす。
次は一番大事な奏の番だ。
ここまでにいくつかレースを見ていて思った。
僕はくるりと座席に座ったままプールに背を向けると、背もたれに向かってうずくまる。

「あれ、どうした。次は奏だよ。奏は応援しないの?」
「奏のは見ない」
「どうして?」

 ちらりと指の隙間からのぞいたいずみは、もの凄くびっくりした顔をしている。

「そんなの当たり前だよ。奏は何番でも頑張って泳いだし、何をしてたって僕には1番だから」
「あっそ!」

 奏はそこにいるだけでいいの。
怪我とか溺れたりなんかしないで、ちゃんと無事に……。

「違う。そうだ。何かあったら、僕が助けに行かなくちゃ」

 やっぱりちゃんと見よう。
ここからだって、遠いけどきっと1階に飛び降りれないわけじゃないし。
人魚仲間で、こういう競争を遊びでしたことはもちろんあったけど、こんなにドキドキするのは、初めてだ。
奏に自分の泳ぎはどうだったって聞かれても、ちゃんと答えられないし……。
100m背泳ぎの、女子と男子が終わって、次が奏の100m自由形だ。

「あ、ダメだ。なんか緊張してきた」

 もし奏が1番じゃなかったらどうしよう。
それで悔しくて、泣いちゃったりしたらどうしよう。
奏がもし途中で失格なんかになったら……。
< 35 / 62 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop