人魚な王子

第2話

 夏の放課後の教室は、とにかく蒸し暑いうえに、今日はそよりとも風が吹かない。
エアコンも入っているはずなのに、ちょっとしか効いてない。
しかもいずみに連れられていくくらいなら、学校の知らない場所に行くより、まだプールの方がましだ。

「ねぇ、どこ行くの。なんかヤダ。違うところに行くくらいなら、僕はプールに行く」
「それはすっごくいい心がけだと思うけど、その前にちょっと来て!」
「ヤだ」

 いずみも怒っているみたいだけど、僕だってちょっと怒っている。
いずみはクラスが違うから、この教室に入ってこれないことを知っている僕は、どうやっていずみから逃げようかと考えながら、プールの準備が入った大きなリュックを背負う。
そういえば、このリュックは岸田くんからもらったものだ。
もう使ってないからとかいって、入部した次の日にくれたっけ。

「いいから来いっていってんの!」
「行かないって言った」

 そもそも僕は、これから奏とケンカをするつもりなのに、いずみなんかに構っていられない。
奏にはどうしても、僕を好きになってもらわなくちゃいけないんだから。
奏は自分が僕を本当に好きじゃないってことが、本当に分かってない。

 荷物をまとめると、廊下に出る。
待ち構えていたいずみは、僕の制服のシャツを掴んで引っ張った。
そういえば、いずみみたいないたずらな魚がいたな。
彼女は黄色いベラの仲間みたいだ。

「奏のところに行くんだから、邪魔しないで」
「あんた。このまま行ったら本当に奏に嫌われるよ。それでもいいの?」
「そんなの。奏はもう僕のこと好きじゃなくなってるし」

 そう言った自分の言葉に、また胸が痛む。
昨日からずっとだ。
こんなこと、今までなかったのに。
やっぱり僕にかけられた魔法の力が、弱くなっている。

「は? あんたたち、好きで付き合いだしたんじゃないの? それで、人間になれたんじゃないの?」
「そうだよ。だからいずみには、関係ないって言った」

 ウソついちゃった。
ウソをつくと心臓が痛む。
ウソをついて痛んだ心臓は、人魚の寿命を1年短くさせるから、ウソはついちゃいけない。
だけど奏が僕のことを本当は好きじゃなかったなんて、僕はそのせいで人間になれなかったなんて、他の人に知られたくない。

「人間になれたから、もう奏のことはどうでもいいの?」
「だって、奏は本当は僕のことなんて、好きじゃなかったんだ」

 心臓の動きが速くなる。
息だって溺れたみたいに苦しい。
陸に上がってようやく慣れたと思ったこの体にも、僕はまだ人間になったわけじゃないから、完全に馴染んではなかったんだ。

「ねぇちょっと、どういうことよ」
「それをこれから確かめにいくんだ!」

 ようやくいずみを振り切った。
僕は一人でプールへ向かうための薄暗い階段を下り、廊下を進む。
初めて学校に来たとき、この階段は海底洞窟みたいだと思った。
まだ冬の真っ最中だった木々は、寒さに凍えていたのに、今はそんな面影はどこにもない。
校舎を一階まで下りきった。
ここからはプールへ向かう廊下だ。
この場所で僕は奏にキスをした。
廊下の壁に張り付いている、赤い箱の付近だ。
その時の奏は、ちゃんと僕が好きって言ったのに……。
奏は一度だって、僕を好きじゃなかった。

「あれ……。なんだこれ……」

 体が急に熱くなって、足の先から血潮が湧き上がる。
その場に立ち止まった。
足元から湧き上がるそれは、頭の先にまで到達すると、声にならない声となって、喉の奥からあふれ出す。

「僕はこんなに、奏が好きなのに……」

 喉の奥が腫れたようになって、息が苦しい。
僕は無理に息をするのをやめ、ぎゅっと声をからした。
そうか。
人間になりたい人魚が声を奪われてしまうのは、きっとこんなふうに泣き続けていたからなんだ。

 ちゃんと奏に謝ろう。
何をどう謝っていいのか分からないけど、彼女がもう僕と会いたくないとか、話したくないだなんて、そんなことにしてしまいたくない。

 ようやくプール前の広場までたどり着いた。
頭上の緑の金網の向こうから、沢山の水音と人の声が聞こえてくる。
他の部員たちは、とっくに泳ぎ初めていた。
きっと奏もそこにいる。
水着に着替えたら、一番に奏のところへ飛び込もう。
そして一緒に泳ぐんだ。
それでもう一度キスが出来たら、僕は人間になれなくたって構わない。
ただ彼女とキスをしたいから、キスをするんだ。

 更衣室の重い扉を開けようとしたら、不意に後ろから声がした。

「宮野か。来たんだ」

 岸田くんだ。
背の高い茶色のサラサラした髪の下で、茶色い目が光る。

「どうして? そりゃ泳ぎに来るよ。だってここに来ないと、岸田くんも奏もいずみも、他のみんなも怒りだすじゃないか」
「はは。だって、もうお前がここに来る理由もねぇだろ。人間になれたんだから。だから奏だって、もう用なしになったんだろ」

 夏の強すぎる太陽が、僕たちの頭上に照りつける。
嫌な汗が、じっとりと背筋を流れた。
岸田くんの肩にかけていた鞄のベルトが、ずるりと垂れ下がる。

「お前、いずみと出来てたんだって?」
「なにが?」
「よかったな、魔法が解けて。それで本当に好きになった女と付き合えるなら、そっちの方がいいよな。奏もびっくりしてたよ。自分が利用されてただけだって、ようやく気づいたみたいで」

 岸田くんはずり落ちた鞄を、肩にかけ直した。
目を細め、冷たく微笑む。

「まぁでも、これでお前も自由になれたんだろ? よかったな」
「どういうこと?」

 むき出しの素肌はちりちりと焼け焦げ、痛む心臓も動き出した。
だけど僕は、まだ人間になれていない。

「命の恩人にもてあそばれるんなら、仕方ないってこと」
「……。それは、どういうこと? 奏に僕のこと、話したの?」
「泣いてたぞ、昨日。夜中に電話してきて、お前の話だろうとは思ってたけど、全然方向性違って、逆に笑ったわ」

 岸田くんの、白いシャツにつかみかかる。
彼の肩から、鞄がドサリと地面に落ちた。
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