新そよ風に乗って 〜時の扉〜

そんな自分に自信を持たなければ、職務は遂行出来ないなどと言われたら、すでに無理だ。
「何もまだ始まってもいない前から投げ出すのではなく、それを克服することこそが社会というものなんだよ。好き勝手なことばかりをしてきた、学生時代との大きな違いはそこにある。会社は、何もせずに給料はくれない。仕えてこそ、与えられる報酬。ただ、その影には自分の努力も必要だが、周りの助けも必要だ。一人だけで、会社は運営出来ないのだから。自分の存在意義を自ら消すのではなく、自分の名前の意味と同じように、その存在意義を示せるよう、確固たる信念と会計監査に矢島陽子在り、と言われるぐらいの存在に俺はなって欲しいと思っている」
高橋貴博さん……。
この人は、本当に真剣に私のことを考えてくれている。そう思える気がするだけではない。その眼差しの奥には、仕事というものに対するひたむきさ、謙虚さが窺い知れる。真面目という言葉だけで片付けられないものを、高橋さんは持っている。私が知らない世界の何か、計り知れないものを……。
「平日のこんな時間に街を歩いていると、何となく居心地悪いな」
「えっ?」
今まで難しい話しをしていた上司だった高橋さんが、いきなり歩きながら伸びをすると、こちらを向いて小首を傾げながら身長差のある私の顔を覗き込み、同意を求めるように悪戯っぽく笑った。急に顔を近づけられて反射的に後ろに上半身を引くと、そんな私の行動を見た高橋さんが、空を見上げながらまた笑っている。先ほどまでの高橋さんとは別人のようで、無邪気という言葉が似合いそうな雰囲気を醸し出している。いったい、どちらの高橋さんが本来の姿なのだろう。まだその奥に隠された素顔を見抜けるほどの千里眼など、私にはない。
学生の頃とは違い、電車の車窓から見る街並みを見る余裕がないまま、もうすぐ会社に着いてしまう。入社二日目にして、すでに遅刻。それも、上司に迎えに来て貰うという失態まで演じてしまった。まさか高橋さんが、家にまで来るとは思わなかった。また、周りの先輩達からいろいろ言われることが想像出来るだけに、憂鬱な気持ちで電車を降りた。
「大丈夫だ。誰かが何か言ったとしても、それは聞き流せ。心に余裕のない言いたい奴には、言わせておけばいい」
「はい」
「中原が、首を長くして待っているぞ」
私の気持ちを察してか、高橋さんがそんな言葉を掛けてくれる。さっき教えてもらった中原さんの気持ち。
「いや、少なくとも俺は、二人は知っている。矢島さんを必要としている人をな……。一人は、中原だ」と、高橋さんから聞き、中原さんが、私を必要としてくれていることに驚きと共に嬉しかった。でも……高橋さんが、「少なくとも俺は、二人は知っている」と言った、そのもう一人は、誰なのだろう。聞くこともとても勇気がいるが、聞いたら果たして高橋さんは教えてくれるだろうか。
「高橋さん」
しかし、聞きたいと思う気持ちが勝り、自然と声が出ていた。
「一つ、伺ってもいいですか?」
「ん?」
高橋さんと視線を交わしながら、切り出してしまったことに羞恥心が働いて後悔したが、意を決して先を続けた。
「さっき、二人っておっしゃいましたよね?」
唐突な私の問い掛けに、高橋さんは口角を少しつり上げて見せた。
「一人は中原さんで、あともう一人は、どなたなんですか?」
「矢島さん」
「は、はい」
「会社の組織の中に居ると、いろいろ厳しいことを言ってくる人も居ると思うが、それは良い経験をさせて貰っているぐらいに思っておけばいい。人間、何も言われなくなったらおしまいだ。見放されたと同じだから。頑張って」
「はい」
応えたくなかったのか、何だか話しをはぐらかされてしまったまま会社のエレベーターに乗ったが、これ以上しつこく聞く気分にもなれず、黙ったまま刻々と変わる階数表示を見上げていた。
「さっきの話しだが……。あっ、降りて」
「は、はい」
返事をした途端、エレベーターのドアが開き、高橋さんが私を先に降ろしてくれると通路を歩き出したので、それに従わざるを得ない。言い掛けた言葉が気になるけど、もうすぐ経理の事務所に着いてしまう。高橋さんが経理の事務所のドアノブを掴んだ。嗚呼、事務所に入った途端、一斉に好奇の目で見られるのだろう。思わず唇を噛みしめ、その時を待ったが、一瞬、空気が動いてドアノブを掴みながら、高橋さんが振り返った。
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