灰色の世界で、君に恋をする
5.
あのとき、君が教会の扉を開けて入って来たのが、すぐにわかった。

――イノリだ。

目をつぶっているのに、会ったこともないのに、なぜか確信的に、俺はそう思ったんだ。
イノリは椅子に座って背を向けている俺を見つけて、こわごわと足を進めた。
俺は起き上がるタイミングを探したけれど、見つけられないまま、イノリが前に立つのがわかった。
どくん、と大きく鼓動を打つ。脈が振動する。?が張る。全身がこわばる。気づかれるだろうか、と思いつつ、俺は完全に目を開くタイミングを失ってしまう。
すとん、とイノリが隣に座って、より緊張が募る。
ああ、もうダメだ。
そう思った。これ以上はきっと隠せない。
なんて言おう。おはよう?いや、いきなりそれはおかしいか。待ってたよ?それはなんか嫌味っぽい気が……
うっすらと目を開けてみる。予想以上に距離が近くて、
『……うわあっ!』
結果的に、そんなわざとらしい反応になった。
でもイノリのほうも同じように驚いていて、
『ごごごめんなさいそんなつもりじゃ……っ!』
とりあえず俺は、狸寝入りがばれていなくてホッとした。
俺は言葉を失った、じっとイノリを見つめた。
イノリは、俺の想像の中から出てきたのかと思うくらい、完璧にイノリだった。いや、想像以上だった。
腰の上まである黒く長い水流みたいな髪、ほっそりとした小さな顔に、大きく澄んだ瞳、日焼けを知らないような白い肌。
想像の中にいたイノリが、その枠を飛び越えて、目の前に立っていた。


『イノリ……だよな?』

わかっていたけど、何か言わなければと、そう尋ねた。
『うん』とイノリは小さく頷いた。
『ユキ』
君が呼ぶ俺の名前は、泣きたくなるくらい特別な響きを持っていた。
お互いの名前を呼んで、この奇跡とも思える瞬間が嘘じゃないことを確認しあった。
4年間ずっと、文字だけの会話を繰り返してきた俺たちは、ようやく、顔を合わせて言葉を交わらせることができた。

『はじめまして』

向きあって、笑いながらそう言った。
あの瞬間、俺の中ではもう、気持ちは固まっていた。

――この気持ちを伝えよう。 

家を出るとき、それを心に誓った。俺にとって、家を出るというのは、そういうことだった。
途中、何があってもそこへ行く。そして会えたら、そのときこそ、この気持ちを伝える。そう心に誓った。
だけど、いざとなると、全然うまく言葉が出てこなかった。告白なんて初めてで、頭の中で繰り返していたイメトレなんてまるで意味がなくて、何をどう伝えればいいのかわからなかった。
タイミングなら、いくらでもあっだと思う。
おやすみを言う瞬間。店から山までの道のり。危ないからと手を繋いで山道を登った。でも桜は咲いていなくて、イノリは今にも泣いてしまいそうで、
思わず、抱きしめたくなった。何度も衝動に駆られた。
でも、俺は何もできなかった。
一緒に桜を見ようと言ったのは、君の喜ぶ顔を、ただ隣で見たいと、そう思ったからだ。そんな悲しい顔をさせたくはなかった。
――また来よう。
その一言を、言う勇気がなかった。
君を知れば知るほど、俺は自分のヘタレぶりを思い知らされた。
数秒前まで自分に銃を向けていた男の手に触れて、イノリは言った。
『わかります、その気持ち』
怖いはずなのに。さっきまで震えていたのに。俺はただ立っていることしかできなかったのに。イノリは男の手を握りしめて、そう言ったんだ。
男は泣きながら、ありがとうと言いながら、ゆっくり、灰と化していった。
イノリは男の手が原型を失って地面にこぼれ落ちる最後の瞬間まで、手を離さなかった。
ああ――
君は、なんて強いんだろう。そして俺は、なんて情けないんだ。
こんな情けない男が君を好きだなんて、笑われるだろうか。

銭湯で、藤也と少し話をした。
『ここまで来てなにを迷うことがあるんだよ?』
藤也は俺の心の内を見透かしたようにそう言った。
『……そうだな』
と俺は曖昧に答えて苦笑した。

『おまえは、言ったのか?』

熱々の浴槽に体を沈めながら、ずっと気になっていたことを、俺は訊いた。
藤也にも、ずっと前から変わらず好きな人がいた。
『ああ言ったよ。バッサリ振られたけどな』
もう悔いはない、とでも言いたげに、藤也はふふんと笑って言った。

藤也の好きな人は、中学のときの担任の先生だという。
一度だけ写真を見たことがある。若々しい女の先生で、国語を教えていた。おかっぱのような黒髪に丸顔で、ふわふわした雰囲気で、スーツを着ていなければ10代にしか見えない幼い印象だった。
4、5人の男女グループに混ざって、まるで少し年上の友達みたいに、その先生ははにかんだ笑顔を見せていた。
その中でどこか違和感があったのは、先生よりむしろ藤也のほうだったーー違和感の理由は、いまになって判明したけれど。留年していたから。みんなの中でひとりだけ年上だったから、だったんだ。
『先生は俺が入院中、しょっちゅう見舞いにきて、勉強を教えてくれたんだ。あんまり嬉しくなかったけど、学校の話もたくさん教えてくれた。留年が決まったときなんか、先生なぜか、ごめんねって泣いたんだ』
新人で、慣れてないのがこっちまで伝わってきて、でもめちゃくちゃ優しかった。でもお見舞いにもずっと変わらず来てくれた。
「ウブな中学生が惚れる理由には、充分だったんだ」
と、藤也は前に、照れ臭そうに話していた。

『受け持った生徒は、ずっと私の生徒だと思っています』
中学の卒業式の日、先生は黒板の前に立ってそう言った。
その言葉に、静かに落胆した。担任じゃなくなっても、それじゃ俺はいつまで経っても子どものままじゃないか。
だから、高校を卒業したら、告白しようと思っていた。
でもーー卒業よりも早く、世界が変わってしまった。
兄が灰害で死んで、紫乃さんの提案で、一家で親戚のところに引っ越すことになった。
会えなくなる前に、伝えなくては。
そう決心して、先生の家まで行った。

『俺、先生のことが、好きです』

先生は、少し泣いていた。
 ありがとう、嬉しい。でも、ごめんなさい――

『私ね、結婚することになったの』

と先生は目を伏せて言った。
『ほら、いつどうなるかわからないから、親孝行しようと思って』
いちばん聞きたくない言葉だった。
『は?なにそれ?親のために結婚すんの?』
そうじゃない、と先生は言った。
『両親が喜んでくれれば私も嬉しいし、それに、いい人だから』
だから結婚するの。
そうか、と藤也は言った。

『そりゃ、おめでとう。じゃーお祝いしてやるよ』

そう言って、藤也は先生に口づけをした。

『……その状況で、すごいな』
俺は少し呆れつつ、でも感心してしまった。
『おう。だから悔いはないね』
まっすぐに、飾り気もなく好きだと言って、相手に結婚相手がいようと構わずキスをして。
我慢も遠慮もなく、それはすごく、藤也らしい告白の仕方だと思った。
『まあ、俺は振られたけど、お前は頑張れよ。どう見ても勝算あるんだからさ』
『勝算とか言うな』
『とにかく、ここまで来たんだからさっさと告っちまえよ。祈ちゃんだって待ってんだよきっと』
そんなふうに言われると、そうかな、という気がしてくる。
もしかして俺は、イノリを待たせてるのか……?
それは嫌だった。散々情けないところを見せてきただけに、そこは男の俺からはっきり言いたかった。
だから、意を決して言った。

『ずっと前から、好きだった』

勝算なんてものは、いざとなるとまるでなかった。イノリの反応はまったく予想できなかった。驚く?喜ぶ?困る?それとも笑われたりして……
だけど、返ってきたのは、予想のどれとも違っていた。

『ごめん……っ!』

そう言って、イノリは泣いた。
イノリの涙が、頭から離れなかった。



「これはもう、すまん、としか言いようがない」
紫乃さんに頼まれた物を運びながら、藤也がううむと唸る。
勝算があるとまくし立てたことに、一応責任を感じてはいるらしい。
昨日、イノリは逃げるように夜道を走って店に戻り、ひと言も話すことはなかった。そして今日は朝から1度も顔を合わせていない。完全に避けられていた。
紫乃さんも何かあったのだろうと感づいてはいるようだが、あえて訊いてはこなかった。その気遣いがありがたくもあり、少し気まずい。
考えても考えても、イノリが泣いた理由が、まったくわからなかった。
タイミングが悪かったのだろうか。それとも俺は気づかないうちに、おかしなことを言ってしまったのか。それとも、泣くほど俺の気持ちが嫌だったのか。

「はあ、なんだったんだ……」

俺はダンボールを抱えながら、ため息と一緒にぼやいた。
あの涙はなんだったのか。ごめんって何だ?
訊きたいことは山ほどあるのに、顔も合わせてくれないんじゃそれもできない。せめてヒントでも教えてくれれば……ヒントをくれなんて、どう考えても言える雰囲気ではないけど。
項垂れていると、ぽん、と藤也が肩に手を置く。
「とりあえず、仕事は手抜かないほうが身のためだと思うぜ?紫乃さん、ああ見えて怒ると鬼だから」
「…………了解」
紫乃さんの家でお世話になる代わりに、雑用をすることになった。人手はいくらでもほしいらしい。
悶々と答えの出ない堂めぐりを続けるより、体を動かしていたほうがずっと楽だった。
……どうせ、イノリには避けられてるし。

「なあ、ちょっと思ったんだけど」
荷物を置いて、ぱんぱんと手を払いながら言った。
「祈ちゃんが泣いたのって、祈ちゃんに原因があるんじゃないか?」
「……は?」
意味がわからず顔をしかめると、だから、と藤也が続ける。
「お前がなんかしたとか言ったとかじゃなくて、祈ちゃんのほうになんか、泣くほどの事情があったんじゃねえの?」
「そんなの……」
俺は言いかけて、言葉を詰まらせた。ないと断言できるほど、俺は、イノリのことを何も知らない。
祈の事情。なにか、泣くほどの事情が……?
俺は、自分が嫌われたのかもしれない、自分の言動が祈を傷つけてしまったのかもしれない、そればかり考えていた。待たせているかもとか、情けないところを見せたとか、とんだ自惚れだった。自分の気持ちばかり先走って、祈の気持ちをちゃんと考えられていなかったのではないか。
あの涙の意味を。ごめんの意味を。それを知っているのは、他の誰でもない、祈だけだ。
だったら――

「あのさ」と、俺は立ち上がって言った。
「俺、悪いけど抜けてもいいかな」
「堂々とサボり宣言するねえ」
藤也はどこか楽しげな口調で言った。
「行ってこい行ってこい。俺が2人ぶん働いてやるからよ」
「ありがとう」
俺は言って、走りだした。
もし、祈が泣いた理由が、俺ではなく、祈のほうにあるのなら。
やるべきことは、ひとつしかなかった。
祈に会って、もう一度話をする。話を聞く。
考えるのは、その後だ。

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