灰色の世界で、君に恋をする
8.
たった今まで握っていたはずのイノリの手が、するりと力なく抜けた。

「イノリ……?」

イノリが倒れていた。俺はとっさに屈んで肩を抱き上げた。細い腕がだらりと力なく垂れ下がった。
「イノリ!」
俺はもう片方の手で?に触れて必死に名前を呼んだ。何度も何度も呼びかけた。
イノリは寝ているみたいに静かだった。呼吸は静かで、安定していた。ただ寝ているだけならよかったのに。その身体からは、ぞっとするほど生気を感じなかった。

聞こえるか、イノリ。返事してくれよ。なんか、なんでもいいからーー

肩を抱き寄せ、雪のように白く冷たいほおを撫で、その身体のどこかに反応がないか、俺は必死に探す。だけどどこにも見つけられない。まるで呼吸をする人形みたいだ。
今までどうやって立っていたんだろう。無理をしていたんじゃないか。俺が、無理をさせたんじゃないか。
なあ、お願いだからーー

「応えてよ……」

声は次第に小さくなり、意識のないイノリに向かって、俺は同じ言葉をつぶやき続けた。
こんな状態のイノリに、求めることしかできない自分が嫌だった。情けなかった。
なにか俺に、できることはないか。
イノリのために。
イノリが喜ぶこと。元気が出るようなこと。



『もう一度、あの桜が見たいな』

思えば、あの言葉がはじまりだった。
それまで本や映画の感想を言いあったり、軽い気持ちでやりとりをしていた顔も本名も知らないイノリという女の子の、心の中をほんの少しだけ覗いた気がした。
でもイノリは、無理だと最初から決めつけていた。それはできないの、と。

『なんで?』
『私は自分の意思では動けないの』

まるで捕らわれのお姫様みたいなことを言った。
事情は深く訊かなかった。誰にだって、言いたくないことのひとつやふたつくらいある。
だったら、と俺は言った。

『いつか大人になったら、その桜を一緒に見よう』

その辺にある桜じゃなく、君が見た、季節はずれの幻のような桜を、いつかきっと見に行こう。
なんの覚悟もなしにそう言った俺は、やっぱりまだ子どもだった。
それから4年。俺たちが大人になるよりも先に、世界があの頃からは想像もつかないほど変わり果ててしまった。来る日も来る日も空は灰色で、人がどんどん姿を消していって、どこもかしこも住めなくなって、なんの希望も見出せないこんな世界で、俺は、君に出会った。

こんな世界だからこそ、どこにも行けなかったはずの俺たちは、出会うことができた。先の見えない絶望的な日々の中、たったひとつそれだけが、やっと巡ってきた幸運だった。
4年間、顔も見えない相手のことを、ずっと想像して抱いていた淡く幼い恋心が、その瞬間、一気に加速した。
だから伝えた。明日がどうなるのかもわからないのに、タイミングをはかっている暇なんてなかった。

『ずっと前から好きだった』

俺のその言葉はイノリを泣かせてしまったけれど、イノリはそれでも、真剣に悩んで考えて、応えてくれた。

『私も、ずっと前から好きでした』

イノリは病気だった。身体の内側から、普通の人より何倍も時間をかけて、ゆっくりと灰と化していく病気だった。それはどれほどの辛さなのだろう。どれほどの恐怖に、君は耐えてきたのか。
初めて会ったとき、きれいだと思った長い髪は、イノリのほんとうの髪じゃなかった。だけどやっぱり、俺はきれいだと思ったんだ。そんなふうに、一生懸命きれいでい続けようとするイノリが、すごくきれいで尊い存在に思えた。
好きだと思った。前よりもずっと好きになった。守りたいと思った。君を、病気から、病気の恐怖から、君を襲う全ての脅威から。
そのためにはこんな弱っちょろい体じゃだめだ。ああ、もっと鍛えておけばよかった。部活の筋トレ、もっと真面目にやっておけばよかった。
走って、筋トレして、積極的に力仕事もやって、だけど、そんなことがほんとうに、イノリを守ることに繋がるんだろうか。
俺にイノリの病気を治す力なんてない。いくら筋肉をつけたからって、イノリの身がわりになって恐怖に耐えることだってできない。できるわけがなかったんだ。
ーー違う、まだ、できることがあるはずなんだ。
俺が、ほんとうにしたかったこと。
君のためにできること。
それはもう、ひとつしか思いつかなかった。
俺はただ、君に笑ってほしかった。喜んでほしかった。

「イノリ」

俺はもう一度、イノリに呼びかけた。
ずっと一緒にいることは、もう叶わないのかもしれないけれど、まだひとつ、やり残したことがある。
明日なんて、もう言ってられない。1日も待てない。
最後の、たったひとつ残された夢ーー

「もう一度、あの桜を見に行こう」

4年越しの約束を、もう一度。
返事はなかった。体からはまるで温度を感じなかった。
だけどーー、
首筋に触れた手に、とくとくと脈打つものを感じた。弱々しくも、動いている。呼吸をしている。

イノリはまだ、生きている。こんなにも一生懸命に、君は、生きようとしていたんだ。

こみ上げるものをくっと堪えて、俺は立ち上がった。
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