紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
 と、入れ替わりに宮村さんが戻ってきた。
「ああ、お嬢様、まだいらっしゃいましたか」
「はい。ちょうどこれから婚姻届を出しに行くところです」
「先にパジャマだろ」と、玲哉さんが横からわざとらしく口を挟む。
「パジャマでございますか?」と、宮村さんがいぶかしがる。
「いえ、なんでもありません。それより、何かありましたか?」
「こちらを奥様からお預かりして参りました」
 差し出されたのは預金通帳だった。
「これまでの給与が振り込まれているそうです」
 ああ、ちゃんと振り込まれていたんだ。
 中を見てみると、三年分のお給料七百万円近くが手つかずのまま積算されていた。
「これを……?」
「お嬢様に渡すこと以外に奥様は何もおっしゃってはおりませんでしたが、奥様なりのご結婚のお祝いなのではないかと」
「もともと紗弥花が受け取るべき正当な報酬だろうに」
 玲哉さんが厳しい口調で言ったせいで、宮村さんが恐縮してしまった。
「ええ、まあ、それはそうでございますが」
 気まずい空気が流れてしまったのを紛らせようと、私は無理に笑顔を作ってみせた。
「良かったです。これでパジャマが買えますから」
「はあ」と、宮村さんは困惑顔を残したままインペリアルスイートのドアを開けてくださった。「では、お嬢様、末永くお幸せに」
「ありがとうございます」
 廊下に出て、私はあらためて玲哉さんの腕に絡みついた。
「ああ、恥ずかしかった」
「まったく、紗弥花は天真爛漫でこっちがヒヤヒヤさせられるよ」
 でも、と、玲哉さんはエレベーターの呼び出しボタンを押しながら、私の腰に手を回して抱き寄せた。
「そんなところに惚れたんだけどな」
 エレベーターを待っている間、私は玲哉さんにお願いごとをした。
「さっき、敵を欺くには味方からって言ってたじゃないですか」
「ああ、まあな」
「何が本当で何が嘘なのか分からないと不安なんで、合図を決めておきましょうよ」
 そうか、すまなかったなと笑いながら玲哉さんが首をかしげた。
「何がいい?」
「ウィンクはありきたりですかね」
「こうか?」
 玲哉さんがまつげの長い目をパチパチとさせるけど、埃が入った人みたいだ。
「下手ですね」
「なんだよ。じゃあ、君がお手本を見せてみろよ」
 えっと……。
 パチッ!
「こ、こうですか?」
「だめだ。却下」
「なんでですか。うまくいったと思うんですけど」
「いや」と、玲哉さんが耳を赤らめながら手で自分の口を塞ぐ。「かわいいなと思って」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「だめだ」と、私に唇を寄せてきた。「他の男に見せたくない」
 ――もう、ばか。
 到着したエレベーターのドアが開く。
 私の腰に手を回したまま乗り込み、器用にボタンを押すと、また口づけを迫ってきた。
「防犯カメラに写ってますよ」
「お義父さんに怒られるかな」
「それはべつにいいですけど」と、私は玲哉さんの目を見つめた。「強引すぎますよ」
「嫌か?」
「そんなところに惚れたんですけど」
「だろ?」
 一階に到着するまでの短い時間も惜しんで、私たちはお互いの愛を確かめ合っていた。
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