日ごと、君におちて行く。日ごと、あなたに染められる。


 セントラルに就職してから五年。私は、良くも悪くも、影の薄いスタッフだった。存在感がないというのは、決してデメリットだけではない。

 空気を嫌いだという人間がいるだろうか。日々、酸素を意識しながら生きている人間がいるだろうか。誰の目にも留まらないということは、少なくとも、誰かから悪意をもたれることもないということ。

 存在感がないなら、せめて悪目立ちはしないように。それだけを心にここで働いて来た。

 だから。もちろん、周囲の人間から注目されることもなかったし、特別好かれることもないけど嫌われることもなかった。だって、空気だから。そうやって生きる自分しか知らなかった。


 それが――。桐谷さんに指輪を渡された日から、桐谷さんが周囲の人間に私のことを隠さなくなって。
 でも、私と桐谷さんという組み合わせがイメージできないのか、いくら桐谷さんがポロポロ私たちのことを漏らしても、周囲の人の心と脳がその事実を受け入れなかったみたいだ。不思議と大きな騒ぎにはならなかった。みんな、桐谷さん独特のブラックジョークぐらいに思っていたらしい。

 でも、いよいよ結婚することをきちんと上司に報告してから、タイムラグの末、大騒ぎとなった。

まずは、同じ監査事業部内の人たち。

『桐谷さんが結婚! 信じられない!』

その言葉を何度聞いたか分からない。

分かります、その気持ち。私だって信じられませんから――。

『小暮さんって……?』

そして、『小暮ってどんな人だったっけ』と一斉に私に視線が向くことになる。次の瞬間、誰もが『え……』と言葉に詰まる。

分かります。何でだよ、って思うでしょうよ。

そして、他部署の人が、こそこそ私を見に来るようになった。

「――小暮さんっていう人、どこ? どの人?」
「ここの課で間違いないと思うよ? だって、桐谷さんと同じ部署の人だって言ってたもん」
「あ……あの子? あの、フワフワ系の可愛い子」

まただ――。

他部署の人は、まず小森だと思うのだ。入り口あたりで女子数人がひそひそとしている会話が、何故か聞こえてしまう。

「違うって。あの子は、小森さんていう派遣の子」
「じゃあ、あの、近くにいる……?」

背中に痛いほどの視線を感じながら、全神経を背中に張り巡らせてパソコンのキーボードを乱打する。

私は、見世物じゃないんだよ――っ!

こういう時、格差婚は困る。どうしたって、皆が注目するのは格下の方。芸能界だってそうだ。大女優と売れない芸人なんかが結婚したとなったら、『あの芸人何者だ?』とこぞって突然その芸人の素性を取材する。

「――小暮さん、すごーい! 芸能人みたーい!」

クソ――っ!

背中合わせに座っている小森が、キャスター付きの椅子を滑らせるように座ったまま私の隣に近寄って来た。

「もう、ひっきりなしですよ。小暮さん、こんなに注目されるの生まれて初めてなんじゃないですか?」
「……」

その通り過ぎて、反論も出来ない。

「しょうがないよ。近くにいた私だって、本当に腰抜かすかと思ったんだから!」

そして、興奮気味の仁平さんまで加わって来る。

「だって、最初、小森さんが桐谷さんを狙うって言ってたよね? それなのに突然小暮さんが桐谷さんと結婚するって、そりゃあもう、意味不明レベルでしょ。まったく、本当に、完全に、何にも気付かなかった。もう、キツネにつままれた感覚よ」

私は意地になってキーボードを打ちまくる。ディスプレイに流れて行く文字が、まるで意味をなしていなくても構わない。

「……まあ、しょうがないですよ。有名な人と結婚したんだから、有名税みたいなもので。多少、面倒なことも多いかもしれないけど、その代償を払ってもあまりある人を手に入れたんだから。ね? 小暮さん。いや、桐谷さん♡」

小森が満面の笑みで私の顔を無理やり覗き込んで来る。

「旦那様が桐谷さんとか、少しくらい苦労してちょうどいいんですよ」

分かってる。私だって、そう思ってる――。

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