色を失くした世界で、私はあなたに恋をした。

 そして、あっという間に研修の一週間前になった。そんな中会計課は、突如発生した非常事態にパニックになっていた。

「えっ!? ちょっと学! どういうこと!?」
「どういうことって……毎年恒例の三年目の研修だろ? お前忘れてたの? 相変わらず抜けてんな」

 学が言っているのは、同期入庁した職員で受ける研修の話だ。美玲と学、そして芹香は入庁三年目。今年は大きな研修が控えているのだ。
 
「そ、それはもちろん知ってたけど……日にちが」
「今月末だけど? それだって毎年恒例だろうが」
「どうしよう……会計課と監査主催の合同研修と被ってる……」

(どうして? 前に確認したときは、その一週間前になってたはずだったのに。私、こんな大事なこと見間違えたの……?)
 
「んなの、三年目研修のが優先に決まってんだろ。悩むことじゃねえじゃん」

(たしかにそうだけど、でも……そしたら)

 美玲は宣雄の元へ向かった。正直に研修のことを話すと、宣雄は案の定、声を荒らげた。
「はぁ!? 困るよそんなの!」
「すみません……」

(……まぁ、そうなりますよね)

 美玲は項垂れた。
 宣雄が美玲に研修資料を頼んできたのは、つまり――。

「失礼します。監査の済んだ伝票を戻しに……って、どうしたんです? 係長、藤咲さん」
「あ……いや」
 目が泳ぐ。あれから、怜士とはほとんどまともに顔を合わせられていない。
(タイミング悪いなぁ……)
「……研修が被っていることに、今まで気付かなくて」
「……そう」

 怜士は息を吐くように頷き、宣雄を見た。その視線にいつもの柔らかさはなく、冷たく鋭い。

「それで?」

 いつもよりも低い声に、美玲はびくりと肩を震わせて怜士を見上げた。

「もちろん藤咲さんは三年目研修に行くんだよね? 基本あの研修は絶対参加だから、こっちには来ちゃダメだよ」
「あ、はい。でも、そうすると……その」
「会計課の研修担当講師がいなくなる?」
「はい……すみません。今まで気が付かなくて」

 怜士がため息を漏らす。そのため息にホッとしたように、宣雄がキッと美玲を睨みつけた。

「これだから女は……。スケジュールの予定くらい把握してくれなきゃ! まったく、いつまでも新人のつもりじゃ困るよ、藤咲さん!」
「すみません」

 美玲はただただ頭を下げるしかない。

(資料を作れってことは、つまり講師もやれってことだと思ってはいたけれど。でも……なんで私がここまで言われなきゃいけないの……そもそも頼まれたのは係長なのに)

 美玲は悔しさから唇を噛んだ。涙が溢れそうになり、さらに強く唇を噛むと、口の中にじんわりと鉄の味が広がっていく。

(どうしよう……泣きそう)
 涙が滲む。

「こうなったら、日程を変えるしかないな」

 そのとき美玲の震えていた肩に、温かな手がポンと乗った。
「泣かなくていい」
 怜士の声に、美玲は顔を上げる。

「違うでしょう、山本係長」
「なに?」
「研修日については、私が変更させてもらったんです」
「君が? そんなの困る。こっちの了承もなしにそんな勝手なことをされても」
「会計管理者には許可をとってありますよ」
「え……」
 怜士がちらりと会計管理者である猿渡の席を見る。当の会計管理者は、今は議会に出席中でここにはいない。
 
「……なんでわざわざそんなことを」
「研修の日程組んだのは係長でしたでしょう? だからですよ」
「どういうことかな」

 宣雄は怒りを露わに声を荒らげた。怜士は嘲笑を浮かべ、宣雄を見下ろしている。
 
「いつでも、なんでも代わりに仕事をしてくれる藤咲さんのいない日に当てたんです。あなたに関しては、物理的に頭を殴るより効果がありそうでしたので」

 怜士の言葉に、美玲は驚いて顔を上げた。怜士は優しげに目尻を下げて微笑みかけてくれている。

「朝霞さん……」
 
 その笑顔に、美玲は涙が込み上げた。
 
「私が研修資料を頼んだのは山本係長です。理由はあなたに講師をしてもらうつもりだったから。言っておきますが、やってもらいますよ。まだ一週間あります。藤咲さんが作ってくれた資料を叩き込んでください」
「くっ……」
 山本係長は悔しげに眉をひそめた。

「あぁ、もちろん研修は質疑応答もありますからね。新採職員向けですが、彼らの質問にはなんでも答えられるようにお願いしますよ。腐っても係長ですから、そんな心配は無用でしょうけど。では、そういうことなのでよろしくお願いします」

 怜士が冷ややかにそう言い捨てると、宣雄はバツが悪そうに黙り込んだ。

 怜士が部屋を出ていくと、美玲は慌ててそのあとを追った。

「朝霞さん!」

 振り返った怜士は、美玲を見ると柔らかな笑みを浮かべた。
 
「……藤咲さん」
「あの……ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げると、怜士は手に持っていたバインダーでパタンと美玲の頭を優しく叩いた。

「いたっ」

 驚き、頭部を押さえながら、美玲は顔を上げた。

「藤咲さん。言っておくけど、あなたもですよ。仕事は一人一人、適量を総務や会計管理者が割り振ってくれてるはずなんだから。無茶な量を引き受けて自分の首を絞めるのはよくない。それで君が倒れたら、もっと周りに迷惑をかけることになるんだよ」
「……はい。すみませんでした」

(返す言葉もない……)

「頑張り屋なのは認めるけど、君はもう少し周りに頼っていいんだよ。分からないところがあったら先に自分で調べることは大切。だけど、諦めて上司に聞くことも大切なことだよ」
「はい……」

(……あぁ、また朝霞さんと同じ課に配属されないかな……)
 
「じゃ、今日は五時半にあのバーで待ってるから」
「え?」

 美玲はキョトンと怜士を見上げた。すると、そこには怜士の含んだ笑みがある。
 
「……俺の言ってる意味わかる?」
「て、定時で帰ります!」
「よろしい」

 怜士が歯を見せていたずらっ子のように笑う。
(わっ……朝霞さんて、こんな顔もするんだ)
 珍しいその笑みに、美玲は目が離せなくなる。

「じゃ、またね」

 美玲は怜士の後ろ姿を、エレベーターの扉が閉まるまで見つめていた。

 
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