温室の魔女は、今日も僕をアフタヌーンティーに誘う〜今宵、因縁の君と甘いワルツを〜

最後のカラードール

 ――でも。

「待ってください、モモさん、そこまでしなくても。だって、あなたとクロさんはただの幼馴染なんでしょう? いくらなんでも幼馴染だからって、そこまで……」

 モモさんは悲しそうに微笑んだ。その笑みに、僕は続けようとした言葉を呑み込んだ。

「……そうです。私たちは、ただの幼馴染。クロはそう言ってる。だけど、私はクロをそう割りきれてはいないから」
「…………もしかして、好きなんですか? クロさんのこと」

 いつだったか、テレビかなにかで見たことがある。クロは週刊誌の常連だと。女好きで、歌と顔以外にはなんの取り柄もない男だと。
 ……でも、それなのにこの人は……。

「うん、好き。……恋って怖いですよね。好きな人のためなら、命だって差し出したっていいと思っちゃうんだから……。でも、命の方がまだ良かったかも。歌声を奪われるなら、いっそ……」

 モモさんは目を伏せる。
 僕は言葉もなく、ただモモさんの頬を伝う涙を見つめていた。

「お願いします。私の歌声と引き換えに、クロの声を治して」
「そんな……モモさん、一度考え直した方が」
 諭す僕を、雫さんが手で制した。
「……本当にいいの?」

 モモさんはこくりと頷いた。そして、僕に柔らかく微笑む。

「綿帽子さん、心配してくれてありがとう。でも、悩んでる暇はないの。早くしないと幕が上がっちゃうから」
「でも……」

 雫さんは小さく息をつき、指を鳴らした。
 元々スローモーションのように揺らめいていた紅茶の湯気が、そのままぴたりと静止する。

 ふわりと雫さんの手のひらに、桃色の短冊が現れる。

「それでは、この短冊に願いごとを」

 雫さんは音もなく、短冊をモモさんに差し出した。
 ごくりとその喉元が上下する。

「お願いします」
 モモさんは、願いごとを書き終えた短冊をそっと雫さんへ返した。

 それまで大人しく雫さんの肩に乗って羽根を休めていた蝶が、ふわりとその短冊に止まる。そして、すぅっと鱗粉を撒き散らしながら消えていった。

「……対価は、後ほどいただきに伺います」
「…………はい」

 しばらく沈黙が落ち、雫さんがモモさんを見る。

「……モモさん。クロさんに会いに行ってみたら? きっと、もう歌えるようになってると思いますよ」

 魂が抜けたように呆然としていたモモさんは、雫さんの言葉にハッとしたように席を立った。

「……そっか。………あ、そうだ。クロにはこのこと、言わないでもらえますか?」

 モモさんは肩を竦めながら、「照れくさいから」と言う。雫さんは柔らかい笑顔で頷き、僕を見た。

「わかりました。ムギちゃんも、気を付けてね」
「……うん」

 僕は頷きながら、弾かれたように立ち上がり、クロさんの楽屋へ駆けていくモモさんを複雑な気持ちで見送った。

 直後、クロさんの歌声とともに、モモさんの泣き叫ぶような、とてもうれしそうな声が僕たちの部屋まで届いた。

「雫さん……これ、本当に願いを叶えたことになるのかな」
「……さぁ、どうかな」

 僕の問いには、冷ややかな答えが返ってくる。

「どうかなって……」
「彼らには、彼らの人生を生きる権利がある。選択肢を選ぶ権利がある。私はその選択肢を一つ多く与えてるだけだよ。決めてるのは依頼人だから」
「それは……そうかもしれないけど」

 雫さんは艶やかな髪を揺らし、頬杖をついた。彼女のシャンプーの香りが僕の心を乱す。

 長い睫毛が揺れるたび、彼女のシャンプーが香るたび、その細く白い手が僕に触れるたび、僕は結局彼女に絆されて、彼女の言う通りにしてしまうのだ。

 僕と雫さんの間に、これまでにない重い空気が流れる。

 そんな空気を切り裂くように、モモさんが戻ってきた。

「英さん、綿帽子さん! クロの歌、本当に戻りました! クロの声、最高だから! コンサート最後まで楽しんでいってくださいね!」

「はい」

 雫さんはモモさんに微笑んでいたが、僕は上手く笑えなかった。

 だって、彼の歌声が戻ったということは、雫さんと彼女との契約が成立しているということだから。

「……ムギちゃん。そんな顔しないで。まだモモさんから対価はもらってないんだから」

 雫さんの車椅子を押しながら、僕たちは会場へ向かう。

「……対価は、いつもらうの?」
「さあ。そのうち気が向いたらもらいにいくよ。今日のコンサートでは、ちゃんと歌えるから安心して」

 雫さんはその顔を隠すように俯いた。艶やかな黒髪に阻まれ、僕にはその表情を窺うことはできない。

 その日のカラードールのコンサートは、大盛況のうちに幕を閉じた。

 観客たちは、これが二人の最初で最後のコンサートだなんて思ってもみないだろう。
 僕は、そんなコンサートを楽しめる度胸は持ち合わせていなかった。

 ――それから、モモさんをテレビで見ることはなくなった。

 週刊誌には、突然歌を歌えなくなったモモは、カラードールを卒業し、行方をくらましたと書かれていた。

 クロは失踪したモモを探すでもなく、あっさりと別の女性ボーカルを見つけてきて、新生カラードールとして活動を始めたという。

 僕は週刊誌を丸めてゴミ箱に捨てると、嫌な気分を洗い流すように顔を冷水で洗い、部屋を出た。

 けれど、どうしても温室へ向かう気にはなれず、図書館へ向かう。

 空は青く、雲は高い。すっかり夏の色だ。僕は太陽を仰ぎ、目を細めた。

 きっと、雫さんは今日も優雅にあの秘密の温室で、平然と紅茶を飲んでいるのだろう。

 茶色の輝くような液体に甘いジャムと、桃色のまあるい宝石を落として。
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