愛しのディアンヌ
 私は、何て言えばいいのか分からない。喉元を強張らせて声を湿らせた。

「……そ、そういうことがあったのですか。えっ」

 ふと、切り込むように彼が視線をこちらに向けた。今、私は彼の香りに包まれている。不思議だった。彼は、子供のように瞳を揺らしている。

 見つめられると、なぜか懐かしいような哀しい気持ちになってしまう。

「本当にありがとう」

 クイッと踏み込まれる。ふっと彼の息が鼻先にかかっている。ひゃっ。顔が近い。バクンと鼓動が跳ね上がった。たちまち、心臓がバコンとビックリ箱のように暴れ出している。

「いいんですよ。僕に謝罪なんていいんですよ。そ、そんなの結構なんですってば!」

 逃げる様にスルリッと身をよじった。彼の腕から抜け出していくことにする。

 ああ、空が落っこちてくるんじゃないかしら。それぐらい、私はドギマギしているのだ。色々と感情を揺さぶられていた。私は、ひたひたと迫る気恥ずかしさに追い立てられ闇雲に走っていた。

 やだやだ。はぁー。私、一人でアタフタして馬鹿みたいじゃないのよーーー。

 恥しい。逃げ出してしまいたーーーーい。こんなの猛烈に照れ臭い。

「待てよ! 君の荷物はどうするんだよ?」

 私は、少し離れた場所で立ち止まる。クルッと振り向いてから告げていた。

「それ、下宿に持って帰っていただけますかーーー。お願いしますねーーー。あなたの部屋に置いておいて下さいね! 僕、遅刻しそうだから走りますね!」

 時間内にホテルに向かいたい。だって、遅刻したら賃金はカットされてしまうもの。働かなくちゃならないの。今朝、私は、ジャンヌに釘を刺されている。

『今週分の家賃を払いなよ! いつも払ってくれるのに、どうしたっていうんだい!』

『払いますよぉ! 絶対にお支払いしますから』

< 56 / 137 >

この作品をシェア

pagetop