愛しのディアンヌ
「それ、有名なピアニストのチラシだよね。気に入ったのならを持って帰りなよ」

 楽しげにツンツンツと私の頬を突いている。彼女は私が女だということを知っているのだ。でも、公言はしないように気遣ってくれている。明るくて優しい。いい人だ。

「ふふっ。ジョルジュったら、こういうのがタイプがいいのかい?」

「ち、違いますよ!」

「まぁまぁ、たまには気晴らしをする方がいいよ。あんたが倒れやしないか心配だよ」

「いいえ。今が正念場なんですよ。卒業試験が近いんです」

「そうかい。それなら頑張りな。マフィンをあげるよ」

 カウンターからマフィンを三個も気前良く差し出してくれた。甘くて優しい匂いがする。嬉しくて胸がホッと緩む。

 学生生活を続けられたのも、クロエ夫婦との素敵な出会いと励ましの声があったから。苦労だらけの学生生活もあと少しとなっている。さぁ、夕刻まではここで勉強しよう。

 私は、文字を記したノートに視線を落としたまま昨夜の事を思い返していく。どう考えてもあれはマズかった。バキッ。楽器を折った瞬間の生々しい音が耳に残っている大切なヴァイオリンを壊してしまったんだものね。やはり、弁償すべきなのかしらと不安になってくる。

『涙がこみあげてきて胸の震えが止まらなかったわ……』

 馬車の中で言っていた彼女の言葉が脳裏に響いている。ヤンの台詞もチクリと私の胸を刺している。

『ルイージは、粗末な劇場や個人の邸宅で細々と演奏して食い繋いでいるのさ』 

 光と影を知ってしまい、好奇心が膨れ上がっていく。演奏を聴いてみたい。しかし、なぜか、この時、全裸でピアノを演奏する姿が脳裏に浮かんだ。勉強に集中したいのに気が散ってしまう。なぜ、そんなに素晴らしいピアニストがヴァイオリンを携帯しているのだろう。

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