シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~

26.分からないことだらけ


 スマホがいくら音を立てても、望んだ報せをくれたことは一度もない。
 電話もメッセージも、どれだけ入れても返事はなかった。
 反応がないのに何度もコンタクトを取ろうとする自分が、段々とストーカーじみたものに莉緒には思えてきていた。


 このままでは駄目だ、いつまで経っても進展はない。
 そう思って、家まで訪ねて行くことも考えた。忙しい人だけれど、不在でも待てばいい。例え何時になろうとも。
 きっと彼も無碍なことはできない。そういう人だ。遅くなれば家に上げてくれるかもしれない。
 そこまで考えて、けれど莉緒は結局実行してはいない。


「なんかもうメンヘラ彼女みたいなんだもん、それ……」


 自分は騙された立場だ。怒る権利もきっとある。
 されたことを考えると、それくらいして相手を問い詰めたいと思うのはおかしなことではないはず。
 けれどあの電話口での頑なな態度と、莉緒を遠ざけるための迅速な対応を思い出すと足が竦む。


 とても到底しそうには思えないのに、もし、彼に冷たく突き放されたら。
 あるいは初めから悪意があったのだと教えられたら。


「……そろそろ出なきゃ」
 意味も果てもない考え事から浮上して、莉緒は腰を上げた。
 ゼーゲル家へ送られた自分の荷物を引き取りに行くのだ。そのままにはしておけない。
 経路を頭の中で反芻しながら、部屋から出る。今からなら余裕を持って到着できる時間だ。
 エレベーターの前を通り過ぎ、奥まったところにある階段を使ってロビーを目指す。
「地図アプリ、立ち上げとこ」
 入口の近くで立ち止まりスマホを操作していたら、不意に影が差した。
 邪魔な場所に立っていただろうか、と慌てて顔を上げると、そこには黒いスーツを着込んだグレーヘアのナイスミドルがいて、何故か莉緒に向かって恭しく頭を下げる。
 何事かと慌てれば、


「お迎えに上がりました」


 とその人は言った。


「……え?」
「わたくし、ゼーゲル家の使用人のウェルグと申します」
 差し出された名刺を反射的に受け取ってしまう。確かにそこにはそのようなことが書かれていた。
 が、莉緒は迎えが来たという事実にぎょっとする。
 レオンには今日訪ねることは確かに事前に伝えていた。
 だが、自分がどこに泊まっているかについては、警戒もあって一切伝えていなかったのだ。
 なのに。
「どうして、ここが」
「ご不快に思われましたら申し訳ありません。しかしレオン様も、心配されておりまして」
 あの日、尾行されていたのだと思い至る。
 本人でなくともこうやって家の人間を使って、宿泊場所を押さえていたのだろう。
「…………」
「お車を用意しております」
 お金持ちの人のすること、手段の規模が理解できない。


 自分の“普通”とはきっと感覚がかけ離れているのだろうと微かな目眩を感じつつも、莉緒はこの迎えの人を振り切ることの無意味さを感じ、大人しくお迎えされることにした。





◆◆◆





「…………嘘でしょ」
 音もなく静かに走り出す車に運ばれて、高級住宅街に到着したのは想定の範囲内だった。


 全体的に情報が不足していると感じた莉緒は、一応事前に調べはしていたのだ。
 不動産事業、ホテル事業、外食産業に製造メーカー。実に幅広い分野の事業のあちこちにゼーゲルの名があった。
 ゼーゲルと言えば一大企業の一つで、つまりレオン・ゼーゲルはこの事業をいずれ継ぐ御曹司なのだ。
 仕事の関係とは言え、すごい人とお知り合いになって、何も考えずに駆け回って遊んでいたんだな、と今更ではあるが気が遠くなる。


 そんなゼーゲル家の本宅である。
 湖水地方の別荘もそうだったが、どこからどこまでが敷地なのだと問いたくなるレベルで続く柵。自動で開かれた門から、建物までがまた遠い。
 広い庭は今まで見かけたワイルド・ガーデンやボールド・ガーデンとは違い、かっちりとした印象を与える、人の手で隅まで整えられた左右対称のフォーマル・ガーデンだった。
 安直に貴族という言葉が莉緒の頭に浮かんだが、案内された先ではお手伝いさんがいて、彼女がフォーマルなお仕着せを着ていたのを見た瞬間そう間違いでもないと思った。


「リオ、いらっしゃい」
「……こんにちは」
 圧倒的な場違い感を覚えながらも通された応接室では、息が詰まるほどの豪奢なアンティーク家具に囲まれ、レオンが待っていた。
 ゆったりとソファに腰掛ける彼は全く周りの調度品に負けず、部屋の真ん中で堂々とその存在感を放つ。もうずっとこう言った一流品に囲まれ暮らして来た彼には、それに相応しいだけの風格が備わっていた。いや、その風格は生まれながらに持っていたものかもしれない。
 とにかく別次元の人だ、と莉緒は心の底から思う。
「あの、私は荷物を」
「わざわざ来てくれたんだ、お茶くらいごちそうさせて?」
 長居したくはなかったのだが、腰掛けるように促され、渋々従う。
 作法ばかりが気になって、口をつけた紅茶の味はあまりよく分からなかった。


「少しは落ち着いた?」
 しばらく経ってから、そう訊かれた。
 昨日の大混乱からは少し抜け出したものの、まだ何も解決していない状態なので莉緒は何とも言えず唇を噛んだ。
「……訊きたいこともあるんじゃ?」
 ないと言ったら嘘だ。
 ティーカップをソーサーの上に戻して、莉緒は相手をじっと見つめる。
 訊きたいことはある。けれど、得られた言葉が真実であるかどうか、どうやって判断するべきなのだろう。
 目の前のレオン・ゼーゲルの中身を莉緒はまだ知らない。信用に値するのか分からない。
 その顔に浮かぶどこか飄々とした表情は、こう言っては何だがどこか軽くて嘘くさい。
 それに多分、レオンは“彼”のことをそう好いてはいないだろう。
 それは自分の名前を騙られたからという理由からではなく、元から抱えている感情のように思えた。昨日の電話口での声音は、決して友好的ではなかったから。
 “彼”に関して、このレオンは公平な情報をくれるだろうか。
「…………連絡が、つかない」
「そうだろうね」
「私を騙していたとして、気まずいのは分かる。けど、その目的が見えない、事が露呈したならそれなりに開示されることがあって然るべきだと思うのに、何にも分からない。こんなの、おかしい」
「君がひどく振り回されていることは承知している。関係者として、申し訳ないと思う」
「っ、レオンはあんなに一方的なことはしない、なにか理由があるはずなのに……!」


「リオ」


 緑色の瞳が、莉緒を射抜いた。



「アレはレオン・ゼーゲルじゃない」


 鋭い視線で、彼はそう言い捨てる。


「……あなたは、彼の正体を知っている」
 昨日からそうだ。アレ、としか彼のことを呼ばない。そこにあるのは憎しみか、侮蔑か、はたまた他の何かか。
「あなただなんて、そんな他人行儀な呼び方はしないでくれ。ねぇ、リオ。“レオン”は本来オレの名だよ」
 そう言われれば、申し訳ない気がした。自分の名前が正しく扱われない状況は、彼にとっては愉快なものではないだろう。
「……レオンは」
 あぁ、とんでもない違和感がある、と思いながらも、莉緒は諦めてそう呼びかけた。
「彼と知り合いでしょう?」
「――――」
 是とも否とも答えないが、答えないことが肯定だろうことは明らかだ。


 それに。
 じっくり眺めると、やはり似ている。彼とレオンはどことなく顔の造りが似通っているのだ。性格などが出るからか与えられる印象は違うが、どうしたってそこから面影を感じる。


「本当に、兄弟とかじゃ」
「アレが? オレの兄弟? それは違う」
 けれどこの疑問に対する返答ははっきりとしていた。嫌そうな気配の滲む声は、だからこそ嘘には思えない。
「でも、ゼーゲル家の一員なのは間違いない」
「まぁそこを否定しても嘘くさいだろうね」
 彼もゼーゲル家の一員だというのなら、どこかで会っていたのかもしれない。全くの他人が、莉緒を騙そうとした訳ではない。知っていると思った莉緒の直感自体も、間違いではない可能性が高くなる。
「……せめて、名前を教えてほしくて」
 それだけでも教えてもらえたら、何かの手がかりになるのではと思った。だが。
「それはアレ自身が望んでいない。教えないという意見には、オレも賛成だ」
 きっぱりと拒否され、胸の内がざわめく。
「そんな、私は当事者なのに。どうしてそう一方的に情報を制限されないといけないの」


「覚えてないんだろう?」
「――――っ」


 痛いところを突かれた、と思った。


「リオ、覚えてないんだよね? あの夏のこと」
「た、確かに昔のことすぎて朧げであることは否定しないけど、でも別に何も覚えてない訳じゃ」
「だけどアレの名前を知らない」


 そう、知らない。思い出そうとしているけれど、何も浮かばない。


「それが答えじゃ?」


 知らない。それが答え。初めから、知らない?


「リオ、あの屋敷で一緒に遊んだのはオレだよ。覚えてないかな、リオにあげたくて庭のバラを手折って、それが随分希少なバラだったものだから母にひどく怒られた」
 どこかで聞いた話だ。莉緒自身にもうっすらと覚えがある。
「…………それは、覚えてる」
「屋敷でかくれんぼをしたら、リオが本格的に迷子になっちゃって、大泣きしてるところを見つけたこともあった」
 紅茶に口をつけながら、楽しそうにレオンは莉緒に聞かせる。
「君にせがまれて絵本を読み聞かせしたこともあったな」
 記憶は相変わらずぼんやりしていて。
 あったと言われれば、実際にそうだったのだと思ってしまいそうになる。
「リオ、毎年夏の間だけのことだったけど、妹ができたみたいで君はとっても可愛かった」
 向かいの男の眼差しが柔らかく緩む。
 取り違えていたのだろうか。これを本来、莉緒は記憶の中の彼と一致させるべきだったのだろうか。
「でも、でも……っ」
「酷い男だ。騙し通せるはずがないのに。君と仲を深めるのなら、いつかは絶対にバレることなのに」
「でもどこかで、きっと、本当のこと」


 帰って来たら話したいことがあると言っていた。上手に伝えたいのだと。
 もしかすると、自ら明かす気があったのではないだろうか。
 そう莉緒が思ってしまうのはただの願望か。


「どこかで? そもそも一番最初に正しく自分の正体を明かすべきだったんじゃ? その場凌ぎで騙って、ずるずると問題を先送りにするなんて馬鹿のすることだ」
「…………」
「傷付く覚悟も傷付ける覚悟もないヤツに何ができる? そういうヤツが一番被害を大きくする」
 突き放すような強い言葉。
「現に君は、傷付けられたんじゃないか」
 けれど、彼の言葉に反論はできない。正しいとさえ思う。
 嘘を吐かれて、弁明もしてもらえなくて、確かに莉緒は傷付いている。
 ぎゅっと握った拳に巻き込まれて、スカートにシワが寄っていた。跡になるとそう思うのに、緩めることができない。


「お兄様」


 そこに、思いもかけず愛らしい声が響いた。


「え……」
「ソフィア」
 部屋の入口に幼い女の子がいた。ほわほわとした金の髪が愛らしい。緑の瞳はレオンとお揃いのようだった。
 それに。
「お兄様?」
「妹なんだ。リオがこっちにいた頃にはまだ生まれてなかった。遅くにできた子で、実はまだ六歳」
「六歳……」
 確かにそう言われればそれくらいの年齢に見える。
 一時莉緒の頭からあれこれの問題が飛び、少女の可愛さに目を奪われる。水色を基調とした幾重にも層を重ねられたふわふわのワンピースがとてつもなく似合っていて、不思議の国のアリスという言葉が反射的に浮かんでいた。
「ソフィア、来客中だよ」
「ごめんなさい……」
 兄にそう言われ彼女は入口でもじもじしていたが、
「おいで。ご挨拶して」
 そう言われるとはにかみながらレオンの元へ駆け出した。
 チラッと莉緒の方を見遣る視線には、見慣れない来客への好奇心と人見知りの両方の感情が混じり合っている。
「こんにちは」
「……こんにちは。はじめまして、ソフィアです」
「はじめまして。宮下莉緒です」
「ミヤシタリオ」
「莉緒、が名前だよ」
「リオお姉さん」
 一人っ子なので誰かからお姉さんなんて呼びかけられたことはない。初めての呼ばれ方にそわそわしていると、
「リオお姉さんは、お兄様の恋人?」
「えっ!?」
 こんにちはと同じくらいの気軽さでソフィアがそう訊いてきた。
 六歳児の口からいきなり恋人なんて単語が出て来て、莉緒はまずそのことに狼狽えてしまう。
「はは、ソフィア、それはちょっと早とちりが過ぎるな」
 小さな身体を抱き上げながら、レオンが笑った。
「ちがうの?」
「うーん……どうだろ? お兄様はリオにその気さえあれば大歓迎だけど」
 どう? と訊かれて、莉緒はキッと反射的に睨み返していた。
 莉緒と“彼”の関係性にもある程度気付いているはずなのに、その上で、今のこの状況でそんなことを冗談で言うなんてと。
「……ソフィア、そろそろ出る時間じゃ?」
 けれどそんな睨みを苦笑で受け流して、レオンは膝上の妹に促した。
「今日はバレエだっけ」
「うん、お兄様、いってきます」
 習い事があるらしい彼女はちゅっと兄の頬に唇を寄せて、お返しに同じようにしてもらってから莉緒にも笑いかける。
「リオお姉さん、また遊びに来て。お兄様の恋人じゃないんだったら、ソフィアとお友達になって?」
 手を振って小さな天使を見送り終えると、莉緒の顔から自然と笑みが引っ込んだ。
「…………私もお暇させて頂きます」
「もう?」
「荷物を」


 一瞬癒されたのは事実だが、それが目的ではない。


「受け取りに来ただけですので。それに、何を訊いても結局は教えてくれないんでしょう?」
「そんなことはないけど」


 そんなことはある。レオンは、あるいは“彼”は、莉緒に与える情報を取捨選択している。
 そして目の前のこの男が自分よりも一枚も二枚も上手だろうことは、少し話しただけでも分かっていた。


 煙に巻かれて、手のひらで転がされて、のらりくらり躱されるだけ。


 何の策もなく質問を重ねても、それで莉緒の望む答えはきっと一つも手に入らない。
 立ち上がった莉緒を、レオンはそれ以上引き留めるようなことはしなかった。


「またいつでもおいで。君の残りのロンドン滞在が、少しでも楽しいものになるように協力したい。悪い思い出だけ持って帰ってもらいたくないからね」


 にこりと、優美な笑顔で送り出される。


「困ったらいつでも連絡して、リオ」


 莉緒が何かを知ろうとすれば、結局は自分を頼らざるを得ないだろうと言いたげな余裕の態度だった。



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