シークレット・ガーデン~英国紳士の甘い求愛と秘密~

31.それでも、今もまだ信じてる


 ホテルには戻れない。


 莉緒の中で、それだけははっきりしていた。
 ホテルの場所はゼーゲル家に把握されている。何なら、部屋番号まで。
 荷物は惜しいが、今すぐに取りに戻るのは賢くない選択だと思った。
 大きな荷物は部屋だが、貴重品一式は手元にある。ひとまず一晩くらいならどうにか凌げるはず。
 そうは思うものの、未だ混乱の方が大きくて自分の取るべき道が判断できていなかった。


「こんな夜に、急に宿……やっぱり一回戻る? 部屋に立て籠れば突破はしてこないだろうし……」
 ひとまず今日、今晩のこと。それを考えるべき。
 しかし次の瞬間、ゼーゲル家の屋敷で起こった事件をどう処理すべきか、今この時点自分の身の安全はどれほど確保できているのか、もう一国も早く日本に帰国するべきなのでは、帰国すれば安全というのは正しい判断なのか――――ぐるぐるとキャパシティ以上の事柄が頭を巡る。


「どうして、こんなことに……」
 莉緒はここに休息を取りに来ただけのはずだった。
 本当なら今もミセス・ベネットの家にステイさせてもらい、あの穏やかな景色をのんびりと眺めて癒しを得ているはずだった。
 何の波風もない、凪の時間を過ごせていたはずだったのに。
「何もかもが、思ってたのとは違う展開になってる」


 思いもかけない相手に助けられて、温かい言葉と対応を沢山もらって、いつの間にか惹かれていた。心を分け合っていた。


「そうだよ、好きだったの」


 何一つ予定通りではないけれど。
 人の溢れかえるロンドンは騒がしくて、皆がそれぞれに役割をきちんと果たしているように見えて、何もしていない自分を不甲斐なく思ったりもしたけれど。
 それでも、ここに来たことを後悔はしなかった。


「だって、一緒にいたかったから……」


 何のための嘘だったのか。どうして自分に近付いたのか。
 莉緒は完璧に忘れていた。何があったのか、今だってその全貌を把握している訳ではない。
 今更手元に置いて、監視したりする必要はなかったはずだ。忘れているならきっと好都合で、それなら近付かないでいる方が余計な刺激を与えずに済む。
 実際、ゼーゲル家との距離が縮まったことで情報を得てしまい、莉緒は手放していた記憶を取り戻してしまった。
 彼のやっていたことは何かおかしい。


「純粋に、あの時私が困ってたから助けてくれたんだって思いたい」
 近付かない方が良かったのに手を差し伸べてくれたのは、純粋な優しさだと思いたいのだ。
「私のこと、一緒に過ごすうちに自然と好きになってくれたって思いたい」
 何か他に目的があったとか、期限付きの恋だったのだとか、そんな風には思いたくない。
「私のこと、こんなにあっさりなかったことに……しないでほしい」
 けれど、どれだけ連絡を取ろうとしても、彼は反応を返してくれなくなった。
 莉緒は彼にとって“都合の悪い何か”になってしまった。


 莉緒は夜のロンドンで立ち尽くす。
 異国の地で、独りで、信用できるものは何もなくて。
 ここにはこんなに沢山の人が行き交っているのに、莉緒には誰もいない。
 自分が何も持っていないことを突き付けられ、心細くて堪らない。
 夜風に吹かれて、頭のてっぺんがすっかり冷えていた。
 滲んだ涙をごまかすように顔を上げれば、ビッグ・ベンが視界に入る。荘厳な時計塔は、もう随分と遅い時刻であることを莉緒に教えた。


「……いつまでも、こうしてはいられない」
 判然としない薄暗い過去は怖い。きちんと話し合えなかった今には、悔いが残るだろう。
 けれど、莉緒にとって大切なものはこの国以外にもあって。
 これ以上両親に心配をかけたくない、健康で安心できる将来がほしい。
 未来を一番大切にして、懸命になるべきだ。
「幸い、少しは調子も良くなったし」


 朝が来たら、速やかに帰国の手続きを取ろう。それがきっと最善。


 莉緒はそう決めて、慣れない街を歩き始めた。
 スマホを再起動して、着信履歴は無視しながらウェブを立ち上げる。
 テキストを入力しようとした、まさにその時だった。
「!」
 再びの着信。
 反射的にしつこいと思った莉緒だったが、表示された名前を見て手元が震えた。


 表示された番号が“彼”のものだったから。


 三回、四回、五回。
 コール音は続くが、指先は動かなかった。期待してはいけない。


「……これもほら、罠かもだし」
 今までどれだけかけても無視していたクセに、こんなタイミングでかかってくるなんて彼とレオンがきっと情報を共有し合っているからに違いない。
「よく分かんないけど、ゼーゲル家ってすっごい家柄だもん。手広く事業してて、私、きっとヤバげな取り引きの現場に居合わせちゃったとか、そういうのなんじゃないの? だから、口を封じたいんでしょ、そうでしょ」


 そう、思うのに。
 莉緒の親指は、通話ボタンに触れてしまう。


『繋がった……!? リオ、リオ!』
 どうしてこんなに必死な声を出すのだろう。
『リオ、今どこにいる?』
 こんな声を出されたら、嫌でも心が揺らいでしまうではないか。
 莉緒は眉間にぎゅっと力を入れて、緩みそうになった涙腺を抑えにかかる。
 これがもし演技なら、彼は本物の俳優になった方がいい。きっと天職だ。
『ねぇ、リオ、リオ? そこにいるんだよね? リオ?』
 言葉が見つからず、莉緒はスマホを耳に押し当てたままぎゅっと口を引き結んだ。
 怒り、拒絶、詰問、許し、どれを向けるのが正解なのか分からなかった。
『僕なんかと話したくないだけ? それともまだ気分が悪い?』
 まだ、という言葉から、彼がレオンと連携を取っていることが察せられる。
 ますます自分の取るべき態度が分からなくなる。
『リオ、体調が悪い訳じゃないんだったら、それだけ教えて。無事でいてくれれば、それでいいから。他はもう訊かない』
 電話なんて、取らなければ良かった。
 そう思うのに、こちらをただひたすらに気遣う言葉に視界が滲んだ。


「――――どうして」
『……え?』


「どうして、何のためだったの」


 本当は莉緒にだって分かっている。
 再開は偶然で、最初の掛け違いは自分が引き起こしたものなのだと。


「私が、最初に勘違いしたから、言い出せなくなったんだよね。私があなたのことを覚えてなかったから、言い出せなかったんだよね」


 騙そうとして、騙した訳じゃないだろうこと。


「私の、せいなんでしょ」
『っ、リオのせいじゃ』


 だからこそ分からないのだ。


「でも、じゃあどうしてその後全然連絡くれなかったの?」
『…………』
「だって話してくれる気、あったでしょ?」
 莉緒が再び湖水地方へ行こうと思っていると話した日のことを、忘れた訳ではない。
「私が帰って来たら話があるって、あれ、自分はレオンじゃないって話してくれるつもりだったんじゃないの」
 言いにくそうにしていた。けれど、真剣な雰囲気がそこにはあった。
 後から思い返して、彼は自ら話す気だったのではと莉緒は感じたのだが。
「どうして、気が変わっちゃったの」
 思っていた順序じゃなかったかもしれない。本人に告白されるのと人から聞かされるのでは、確かに印象は全く違ってくる。
 それでも、莉緒には余地があった。彼の話を、言い分を聞くつもりはあったのだ。話してほしいとさえ思っていた。
「どうして無視するの。無視するのに、レオンとは密に連絡取ってるの」
 なのに、彼はひたすらに逃げ回って、決して莉緒と向き合ってはくれなかった。
「私、あの日、そんなに見ちゃいけないものを見たの? あなたにとって都合が悪いもの?」
『リオ、君やっぱり……』


 やだなぁ、寒いなぁと星のチらつく空を見上げながら、莉緒は小さく鼻を啜る。
「ねぇ、もういい加減教えてよ」
「……リオ」


 聞こえた声に視線を地上に戻せば。


「――――エリオット」


 顔を見るのはいつぶりだろう。彼が、息を切らしてそこにいた。



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