緋の鏡 ~その血は呪いを呼ぶ~
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
ひたり、ひたりと血の滴が落ちる。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
克弥は夢の中で女を見た。薄汚れた姿。乱れた着物と髪。顔は泥と涙で見るからに汚らしい。その女の恨みに染まった目は、己の手に向けられていた。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
右手の人差し指は第一関節から失われ、血が流れている。左手はなにかを握っていて、先のない指を押しつけていた。
――二人で逃げよう。
どこからともなく男の声がする。
――嘘つき。
今度は女の声。目を凝らすと、女の口が微かに動いている。
――嘘つき。
――説得は確かに無理だ。だから、一緒に逃げよう。
――嘘つき。
――お前だけだ。
男の声と女の声が入り混じる。
――ただ、惚れただけだってのに、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだい。
女の目から涙が溢れ、汚れた顔をますます醜くした。
二人の声が克弥の中で木霊する。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
(なんだろう、あれ……あ!)
左手の物体を確認した瞬間、克弥は目を覚ました。
汗が滴る。恐怖に震えた。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
耳にはまだ声が残っていた。
(間違いない。あの手鏡!)
飛び起きて明かりをつけ、机の上に置いている朱色地に花鳥風月も美しい手鏡を手に取った。
(!)
克弥は目を見張った。その瞬間、その手鏡を放り投げていた。
(ウ、ウソ――)
鏡の面が血でどす黒く染まっていたのだ。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
克弥の脳裏に言葉が蘇り、木霊した。
恐怖に体が震えた。ハッとして時計を見ると、時計は四時を示していた。
(この時間だ!)
放り投げた手鏡に近づき、恐る恐るもう一度覗き込む。鏡の面は血に染まっていたが、次第にゆっくりと色を失い始めた。
やがて綺麗な輝きを持ついつもの姿に戻った。克弥の顔を映している。克弥は居ても立ってもいられず、顔を洗い、着替えると、鏡を掴んで家を飛び出した。そしてどこともなく歩き、彷徨い、川原にやってきた。
(こんな手鏡!)
胸の内で叫ぶと、その手鏡を川に向かって投げた。ぽちゃんと音がし、水の中に消えていった様子を眺め、しばし茫然自失の状態で立ち尽くす。それから間もなく、再び歩き出した。
行き同様、どこをどう歩き、彷徨ったか、そしてどれぐらいの時間歩き回っていたのか、まったく覚えていなかった。ただただなにも考えず、考えられず、歩き続けるだけだった。
しばらく歩き続けた克弥は、ふと目についた鳥居を見あげた。その横には岩のような大きな石が据えられてあり、神社の名が彫り込まれている。『景龍神社』、克弥は重厚な趣のある年季の入った巨石に神聖さを感じた。
藁にもすがる心境でその神社の鳥居をくぐり、石畳の階段をのぼった。社務所に近づき、誰かいないか覗き込むと、袴姿の初老の男の姿があった。来客の様子で、女と話をしている。だが克弥に気づくと立ちあがった。
「ご用ですか?」
「あ、いえ、お客さんなら終わってからでいいです」
「いいのですよ。身内みたいなものですから」
男は微笑んだ。沁み入るように優しい笑みだった。克弥が申し訳なく思いながらその女を見ると、向こうも自分がいると克弥が気を使うと思ったのか、立ちあがって男に向かい「また来ます」と頭をさげて帰っていった。
なかなかの美人だ。
(クールビューティ)
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。怖いほどの鋭い目つきをしていた。
克弥と目が合った瞬間、鋭く睨んだような気がした。とはいえ、そんなことはどうでもよかった。克弥はすぐに男に顔を向けた。
「それで、どうされました? 祈祷ですか?」
「え? あ、はい。なんか最近、ツイてないというか、不運続きというか、その――」
男は静かに佇み、克弥の口から漏れる言葉を聞いている。
「自分自身もそうなんですが、周囲の者によくない出来事があって、なんか自分のせいじゃないかって気になって……」
「気のせい――そう申しあげたいところですが、存外、何事もその『気』が作用するものです。あなたが気になるとおっしゃるなら、厄除祈願を致しましょうか」
すがるような表情で男を見つめる。克弥は頭をさげた。
「お願いします――あ、やっぱ、ダメだ!」
克弥は思わず叫んでしまった。男は驚いたように目を丸くした。それを見てさらに慌てた。
「すみません! すみません、ふらっと来ちゃって、お金、持ってないんです。えっと、どれくらいいるのかわかんないし、その」
男はもう一度克弥に優しい微笑みを向けた。
「一般的にはこれくらいですが、あくまで目安です。『志』ですからね。お気に為さいませんように。それにずいぶん困っていらっしゃるようですから、お初穂料はまた後日でもけっこうですよ」
示された紙に祈祷料が印刷されていた。それぞれ値段があるが、一番安いのは五千円だった。克弥はホッとした。
「あ、いや、これぐらいでいいんですか? なら大丈夫です。今日中に持ってきます」
「そうですか。わたくし共は人の心を癒やすのが役目です。費用は本来かからぬのが理想です。ですから『志』なのですよ。ではこちらにお名前とご住所、それから『厄除祈祷』とお願いします」
克弥は男の笑顔に勇気づけられ、言われるままに署名し、男に従って拝殿にやってきた。
「ここでしばらくお待ちを」
おとなしく待っていると、さっきの男が着替えて現れた。今度の姿は立派な衣冠束帯姿で、この神社の宮司であるとわかった。
二十分程度で祈祷は終わった。なんとなく少しマシな気分になった。『病は気から』とか『イワシの頭も信心から』とはよく言ったものだと自嘲しつつ、宮司に深く頭をさげて神社を後にした。
――恨んでやる
――祟ってやる
ひたり、ひたりと血の滴が落ちる。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
克弥は夢の中で女を見た。薄汚れた姿。乱れた着物と髪。顔は泥と涙で見るからに汚らしい。その女の恨みに染まった目は、己の手に向けられていた。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
右手の人差し指は第一関節から失われ、血が流れている。左手はなにかを握っていて、先のない指を押しつけていた。
――二人で逃げよう。
どこからともなく男の声がする。
――嘘つき。
今度は女の声。目を凝らすと、女の口が微かに動いている。
――嘘つき。
――説得は確かに無理だ。だから、一緒に逃げよう。
――嘘つき。
――お前だけだ。
男の声と女の声が入り混じる。
――ただ、惚れただけだってのに、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだい。
女の目から涙が溢れ、汚れた顔をますます醜くした。
二人の声が克弥の中で木霊する。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
(なんだろう、あれ……あ!)
左手の物体を確認した瞬間、克弥は目を覚ました。
汗が滴る。恐怖に震えた。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
耳にはまだ声が残っていた。
(間違いない。あの手鏡!)
飛び起きて明かりをつけ、机の上に置いている朱色地に花鳥風月も美しい手鏡を手に取った。
(!)
克弥は目を見張った。その瞬間、その手鏡を放り投げていた。
(ウ、ウソ――)
鏡の面が血でどす黒く染まっていたのだ。
――呪ってやる
――恨んでやる
――祟ってやる
克弥の脳裏に言葉が蘇り、木霊した。
恐怖に体が震えた。ハッとして時計を見ると、時計は四時を示していた。
(この時間だ!)
放り投げた手鏡に近づき、恐る恐るもう一度覗き込む。鏡の面は血に染まっていたが、次第にゆっくりと色を失い始めた。
やがて綺麗な輝きを持ついつもの姿に戻った。克弥の顔を映している。克弥は居ても立ってもいられず、顔を洗い、着替えると、鏡を掴んで家を飛び出した。そしてどこともなく歩き、彷徨い、川原にやってきた。
(こんな手鏡!)
胸の内で叫ぶと、その手鏡を川に向かって投げた。ぽちゃんと音がし、水の中に消えていった様子を眺め、しばし茫然自失の状態で立ち尽くす。それから間もなく、再び歩き出した。
行き同様、どこをどう歩き、彷徨ったか、そしてどれぐらいの時間歩き回っていたのか、まったく覚えていなかった。ただただなにも考えず、考えられず、歩き続けるだけだった。
しばらく歩き続けた克弥は、ふと目についた鳥居を見あげた。その横には岩のような大きな石が据えられてあり、神社の名が彫り込まれている。『景龍神社』、克弥は重厚な趣のある年季の入った巨石に神聖さを感じた。
藁にもすがる心境でその神社の鳥居をくぐり、石畳の階段をのぼった。社務所に近づき、誰かいないか覗き込むと、袴姿の初老の男の姿があった。来客の様子で、女と話をしている。だが克弥に気づくと立ちあがった。
「ご用ですか?」
「あ、いえ、お客さんなら終わってからでいいです」
「いいのですよ。身内みたいなものですから」
男は微笑んだ。沁み入るように優しい笑みだった。克弥が申し訳なく思いながらその女を見ると、向こうも自分がいると克弥が気を使うと思ったのか、立ちあがって男に向かい「また来ます」と頭をさげて帰っていった。
なかなかの美人だ。
(クールビューティ)
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。怖いほどの鋭い目つきをしていた。
克弥と目が合った瞬間、鋭く睨んだような気がした。とはいえ、そんなことはどうでもよかった。克弥はすぐに男に顔を向けた。
「それで、どうされました? 祈祷ですか?」
「え? あ、はい。なんか最近、ツイてないというか、不運続きというか、その――」
男は静かに佇み、克弥の口から漏れる言葉を聞いている。
「自分自身もそうなんですが、周囲の者によくない出来事があって、なんか自分のせいじゃないかって気になって……」
「気のせい――そう申しあげたいところですが、存外、何事もその『気』が作用するものです。あなたが気になるとおっしゃるなら、厄除祈願を致しましょうか」
すがるような表情で男を見つめる。克弥は頭をさげた。
「お願いします――あ、やっぱ、ダメだ!」
克弥は思わず叫んでしまった。男は驚いたように目を丸くした。それを見てさらに慌てた。
「すみません! すみません、ふらっと来ちゃって、お金、持ってないんです。えっと、どれくらいいるのかわかんないし、その」
男はもう一度克弥に優しい微笑みを向けた。
「一般的にはこれくらいですが、あくまで目安です。『志』ですからね。お気に為さいませんように。それにずいぶん困っていらっしゃるようですから、お初穂料はまた後日でもけっこうですよ」
示された紙に祈祷料が印刷されていた。それぞれ値段があるが、一番安いのは五千円だった。克弥はホッとした。
「あ、いや、これぐらいでいいんですか? なら大丈夫です。今日中に持ってきます」
「そうですか。わたくし共は人の心を癒やすのが役目です。費用は本来かからぬのが理想です。ですから『志』なのですよ。ではこちらにお名前とご住所、それから『厄除祈祷』とお願いします」
克弥は男の笑顔に勇気づけられ、言われるままに署名し、男に従って拝殿にやってきた。
「ここでしばらくお待ちを」
おとなしく待っていると、さっきの男が着替えて現れた。今度の姿は立派な衣冠束帯姿で、この神社の宮司であるとわかった。
二十分程度で祈祷は終わった。なんとなく少しマシな気分になった。『病は気から』とか『イワシの頭も信心から』とはよく言ったものだと自嘲しつつ、宮司に深く頭をさげて神社を後にした。