緋の鏡 ~その血は呪いを呼ぶ~
『親からでさえ祝われたことのないあたしなのに、金のために売られたあたしなのに、定さんは祝ってくれたんだ。初めて誰かに誕生日を祝ってもらったんだ。うれしかったよ、本当に。この人のためなら死んでもいいと思った。けど、けど』

「手鏡は、その定さんに貰ったんですか?」

 ボロボロと大粒の涙をこぼしながら春音は何度も何度も頷いた。

『大事なお前が生まれた日だからって、あの手鏡をくれたんだ。綺麗で、かわいくて、うれしかったよ。本当にうれしかった。花魁にでもならなきゃ、とてもじゃないが手に入るような代物じゃない。あたしのような下っ端の女郎に、定さんはあんな高価な手鏡をくれたんだ。定さんは毎日ってくらい通ってくれて、一緒になろう、二人で逃げようって言ってくれた』

――二人で、逃げよう。

 男の声を思い出し、克弥はその言葉を噛みしめた。

「春音さんが閉じ込められていたここは、定さんの家ですね?」

『うん。ある日、定さんの家の者だと言って人が訪ねてきた。男が数人……定さんがあんまり想っているから、女将が折れて、結婚を認めてくださった。迎えに来たんだって』

 その当時のことを思い出したのだろう。春音は肩を震わせ、さらに泣いた。

『身請けの金も用意している。だから、とにかく屋敷に来るように、って』

 この時、必死で語る春音は、自らの姿に異変が起こっていることを気づいていなかった。

 薄汚れ、乱れた汚い姿が、少しずつ少しずつ、綺麗な身に変化していたのだ。

 克弥と紗子は浄閑寺の住職達が春音を弔い、仏の慈愛を以て彼女を浄化していることを理解した。さらに自白することによって、身の内側からも穢れが祓われている。

 春音の姿は確実に変わっていた。

(もう少し)

 そんな思いが二人の胸にあった。

『なのに、女将はあたしに言った。『お前のような汚らわしい女は、息子と話をする資格すらない。息子には、もう決まった相手がいる。お前にはあの世に逝ってもらうよ』って。あの女は、あたしたちを裂くだけじゃなく、あたしの存在自体を否定したんだ! それからは本当に地獄だった。水一滴与えてもらえず、厠へも行かせてもらえず、息絶えるまで、あの鉄格子で仕切られた土の牢に閉じ込められた。あたしは、ししばば垂れて薄汚く汚れ、悔しさと憎しみに身を焼いた。呪って呪って、息絶えようが、あの女を呪ってきた』

「貰った手鏡に自分の血を塗りつけて?」

『そうさ。血は呪いを受けてくれるって言うからね。あたしが死んでも、ずっと、ずっと、あの女の子孫を恨み続けてくれると思ってさ』

 春音はキッと克弥を睨み、さらに言った。

『あんた、本当にあたしと一緒にあの世に逝くつもりかい?』

 克弥の中に恐怖が生まれた。
 赤黒い煙のようなものが自分と春音の足元で渦を巻いている。
 生まれた恐怖が大きくなっていく。
 体が震えてくるのがわかった。
 克弥はどうしていいのかわからず、すがるような目を紗子に向けた。そして彼女の唇が微かに動いていることに気がついた。

(祝詞をあげている!)

 もう一度息を呑み込んだ。ここで怯んではいけないと自らを叱責し、力を込めて頷いた。

『本気かい?』
「本当です。さんざん苦しめられた春音さんにウソは言いません。さぁ」

 克弥は両腕を伸ばして春音を誘った。
 春音が差し出された両腕をしばし見入る。

「恋人と同じことをした俺が気に入らないんでしょ?」

 今度は克弥の顔を無言で見あげる。
 克弥は精一杯思いを込めて微笑んだ。

「春音さん、もう一回頑張ろう。一緒に逝くから。大丈夫。二人だったら怖くないよ」

 春音の目から再び涙が溢れ出した。それから弾かれたように腕を伸ばし、克弥の胸の中に飛び込んできた。

 その身はすっかり綺麗になっている。髪も、顔も、着物も、なにもかもが美しく清められていた。

『どうして』
「春音さん?」
『どうして、助けてくれなかったんだいっ。自分の家に閉じ込められているってのに、どうして』
「ごめんね。ごめんね、春音さん。ごめん」
『どうして気づいてくれなかったんだい』

 春音の目から綺麗な涙が流れる。

『ただ、好きになっただけなのに』
「うん」
『好きになっただけなのに』
「うん」
『今度こそ、一緒に』

 克弥の胸に顔を埋め、春音はそう言った。

『今度こそ』
「そうだね。今度こそ幸せになろう」

 顔をあげて返事をした克弥の顔を見つめる。それからギクリと体を震わせた。

 春音の目は克弥の首にかけられた円鏡に釘づけになっていた。彼女の目には、円鏡の中、どす黒く濁った汚らしい手鏡を握りしめ、互いに見つめあって幸せそうに笑っている若い男女が見えていた。それが克弥と、克弥の恋人であることは春音にもすぐにわかった。

『手鏡』

 聞こえないほどの小声で呟く。

 忘れもしない、愛した男の腕の中で喜びと幸せに満ちた日々。
 その男が誕生日にと贈ってくれた朱色地の花鳥風月が美しい手鏡。
 愛しい男を深く感じた証の手鏡。

 克弥の胸の中で春音は震えた。同時に彼女に耳に慈愛の言葉が届き、体中に響き渡った。

『神の詞《ことば》だ』
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