水縹のメロディ

2-5

 ピアノといえば、黒。

 きっと誰もがそう答えるだろうし、夏紀だってそうだ。学校にあるのも、習った先生の家にあるのも、もちろん夏紀の家にあるピアノだってごく一般的な黒の塗装をしていた。

「黒だと重くなるから、白らしいです」

 徹二にそれを聞いてから、夏紀はカフェでピアノを弾きたいという想いが強くなった。もちろん、音楽に関わっていたいのもあるし、単純に白いピアノを弾いてみたい。鍵盤のタッチはそれほど変わらないかもしれない。けれど、視界は絶対に明るくなる。

 その日は残念ながらオーナーには会えなかったので、また改めて来ると言って夏紀はカフェを出た。来た時と比べて陽射しが強くなっているが、坂道は下るほうなのでそこまで辛くはない。家の前に辿り着くと、ピアノ教室の二階の部屋からオカリナが聴こえた。

(オカリナかぁ……ピアノじゃなくてオカリナでも素敵かも)

 もし自分に決まったら木下夫妻に声をかけようかと考えながら、夏紀は玄関のドアを開けた。そして自室に入って窓を開けて、聞こえたメロディにふと首を傾げた。

(あれ? この曲……タイトル知らないけど、どこかで聞いたような……?)

 本当につい最近、同じ旋律をどこかで聴いた。けれどそれがどこだったのか、夏紀は思い出せない。

 両親との昼食を済ませてから、夏紀はさやかに電話した。

『そっか、残念だったね。でも、他に誰も来てないんなら、夏紀に決まるんじゃない?』
「だと良いんだけどね……。恵子さんも徹ちゃんも、オーナーは気まぐれって言ってたから、ちょっと心配はあるけど」
『大丈夫だって、私が言うんだから間違いない! 夏紀がピアノ上手いのは本当なんだから』
「いや、でも、長らくまともに弾いてないし……」

 夏紀の背中を押してくれるのは、いつもさやかだった。
 さやかが転校してきて夏紀の隣の席になって、本当に良かったと思う。

「やっぱ、さやかは強いよ。あのね、恵子さんに聞いたんだけど、あのカフェ、来月バーベキューするんだって」
『へぇー。テラスで?』
「うん。それで、誘われたんだけど」
『行く!』

 夏紀が「行かない?」と聞くより早く、電話の向こうでさやかの声が弾けた。

『行くよ行く! いつ?』

 まだ決まっていないけれど七月下旬の予定だと恵子が言っていた。食材はすべてカフェが用意してくれるらしい。

「まぁ、でもそれも、オーナーの気分次第らしいけどね」

 七月に入ると学生には夏休みという夢の日々が待っているが、社会人にはそんなものはない。夏紀の会社はお盆前後に一週間ほど休みがあるけれど、サービス業の人たちにはそれはあり得ない。

 いま夏紀とさやかが来ているハレノヒカフェも、平日の定休日と雨の日を除いて休みはないと聞いた。従業員は恵子と徹二の他にもいるが、世間一般の連休のときには休みはないらしい。

「だからバーベキューの次の日は臨時休業になります」

 ケーキセットを運んできた徹二が教えてくれた。気まぐれオーナーと相談の結果、バーベキューは七月最後の土曜日に決まったらしい。
「良いよ良いよ、たまには日曜日に休みたいでしょ」
「はい……。友達と遊びに行きます」
「ほんとに友達? 彼女でしょ?」
 さやかがいたずらっぽく聞くと、徹二は少し照れた。
「あっ、やっぱり! 彼女出来たの?」
「……はい」

 徹二が夏紀を好きだというのはさやかも気付いていたし、先日のことも夏紀から伝えられていた。徹二に彼女ができたと聞いて夏紀は少し寂しくなったけれど、彼を恋人にしようと思ったことはない。

「それじゃ、夏紀は寂しくなるねー」
 店の奥に戻っていく徹二を見送ってから、さやかは夏紀のほうを見た。
「うん。……って、私、別に徹ちゃんのことは気にしてないから」
「あーそっか。夏紀には、例のイケメンがいるもんね」

 梅雨に駅で傘を借りてから、ハルと会わないまま一ヶ月が過ぎた。
 あれから何度か雨の日はあったけれど、夏紀が傘を持っていたり、持っていなくても大丈夫な小雨だったりで、どこかで雨宿りすることはなかった。もちろん、雨の日に限ってハルが現れるなんて、王子様みたいなことはないと思っているけれど。

「もう梅雨も明けたし、今度は日傘を貸してくれるんじゃない?」
「さすがにそれは無いでしょ」
「でも最近は、男の人でも日傘使ってるよ」
「そうだけど……」

 ハルとはきっとどこかで会うと思ったが、会いそうな状況にはならなかった。
 それでも傘は返したいから、忘れないように部屋の入口に置いてある。次に会ったときに住所を聞くように、と毎日家を出るときに自分に言い聞かせている。

「ま……イケメンは苦手なんだけどさ」

 どっちかというと素朴な人が良いな、と言いながら、夏紀は二種ベリーのムースにフォークを入れた。
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