水縹のメロディ

2-10

 ハレノヒカフェでピアノを弾き始めて、一月(ひとつき)が経った。
 夏紀が行くのは仕事が休みの週末だけなので、そんなに多く行ったという感覚はないけれど。

「なーつきっ。やってるね」
「あっ、さやか……。来るなら言ってよー」

 演奏が終わって夏紀が店の奥へ戻ろうとしたとき、客席からさやかが声をかけた。ハルは先に奥に戻り、夏紀はさやかの席に行った。

「噂を確かめたくってさ」
「う、噂って、やめてよ……何にもないんだから」

 不在のことのほうが多かったオーナーが珍しく頻繁にカフェにいる、それも同じ年頃の異性と親しげに音楽をしている、もしかすると二人は恋仲なのでは。という噂がいつの間にかプロヴァンスに広まっていた。
 それはもちろん夏紀の両親の耳にも入っていて、夏紀はなんとなく両親と顔を合わせるのが嫌だった。

「彼氏といつ別れたの?」
 なんて母親は心配してくるし、
「仕事辞めるのか?」
 と父親もなんだか動揺していた。

 もちろん、両親が心配してくれるのは有難いし嬉しくもある。けれど、夏紀とハルはそういう関係では全くないし、夏紀は彼を好きになる予定はない。彼は夏紀にとってあくまで演奏の相棒であり、ピアノの先生だ。

「それに、イケメンは苦手だし。向こうだって、気にしてないよ」

 ハルが夏紀に優しくしてくれるのは、ピアノを弾く時だけ。それ以外は今までと何も変わらないし、世間話をすることもない。例え夏紀がハルを好きになったとしても、彼には受け入れてもらえないだろう。

 夏紀はさやかとランチを食べ、従業員に一言挨拶してから帰ろうと店の奥を覗いた。

「城崎さん、私、そろそろ帰ります」
「お疲れさま。ありがとうね」
「あの──ハルさんは?」
「オーナーねぇ……いつの間にか、帰っちゃったみたい」

 ハルにも挨拶をしておこうと思ったけれど、彼は既に店にはいなかった。一緒に音楽はするけれど、挨拶はあまりしてくれない人だ。

「ねぇ、夏紀ちゃん」
「はい?」
「ありがとう。本当に……何も無いの?」

 恵子の質問の意味がわからず、夏紀は首を傾げた。その間に徹二も現れて、恵子の隣に並んだ。

「夏紀さんが来てからなんです、オーナーが変わったの」
「え? どういう意味?」
「あの人、ちょっと冷たいとこあるけど……あれでもマシになったのよ。夏紀ちゃんが来るまでは、笑顔なんてなかったの」

 夏紀は何も言えなかった。

「持ってるものはすごいから、お店は順調だったんだけどね。急に言いだしたのよ、ピアノ置く、って」
「あの時からなんです、オーナーが笑いだしたのは。夏紀さんのおかげです」

 徹二にも礼を言われたけれど、夏紀は本当に何もしていない。
 夏紀が変えた、と言われても、いまいちピンとこない。

「あ、だから、私だったら名前教えてくれるかも、って……」

 夏紀ももちろん、ハルの本名は気になっているけれど。それは特に意味を持つものではないし、知ったところで得するものでもない。ハルというくらいだから、どこかにそれが入っているだろう、と思う程度だ。

「最初から夏紀ちゃんを採用するつもりだった、って言ってたでしょ。夏紀ちゃんになら、もっと心を開いてくれるんじゃないかなぁ、って思ってるの」
「そうかな……」

 夏紀はハルと出会ったときのことを思い出してみた。
 雨に打たれていたときに、傘を貸してくれた。次に彼に会ったのも、雨が降る日だった。自分の傘を夏紀に渡し、そのまま姿を消した。

 偶然だったのか、尾行されてたのかは、わからないけれど。
 優しい人なのは、間違いないけれど。
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