水縹のメロディ

1-5

「ねぇ、そういえば、さやか、このへんでイケメンって見たことある?」
「夏紀──あっ、もしかして、例の男と別れた? それで次の候補探してるの?」

 前の恋人とは別れたけれど、次の恋を探しているのは違う。
 もちろん、欲しくないとは言わないけれど、今は考えていない。

「うん、さやかから電話あった日にね。別れたというかふられたけど、なんか清々したよ」
「それが正解だよ。あんな男、夏紀には向いてない」

 もっと真面目で優しい人を探しなさい、と言いながら、さやかはアイスティをストローで吸い上げた。

「それで? イケメンは何なの?」

 さやかもまだ独身だけれど、婚約している相手がいた。それでもやはり女の人は、イケメンの話は気になるらしい。

「その、あいつと別れたとき、雨が降ってきたんだけど……私、ショックで動けなくて」

 雨に打たれているところへ青年が傘を持ってきてくれた。どこの誰かも知らないけれど、ものすごく綺麗な顔をしていたことだけははっきりと覚えている。

 と言うと、さやかは笑顔になった。
「その人に惚れたんだね」
「違うからーもう……。傘を返したいだけだよ」

 青年は何も言わずに走り去ったけれど、このまま傘を返さないのは夏紀の性にはあわなかった。だからと言って名前も何もわからない以上は探しようがないし、ずっと傘を持ち歩くわけにもいかない。

「夏紀って、傘は持たないよね」
「うん。家を出るときに晴れてたら、ほぼ持たない」

 日傘は好きで持つけれど。
 夏紀はどうしてか、雨傘はあまり持ち歩かなかった。もちろん折りたたみ傘も持っていないし、特に晴れ女認定されているわけでもない。

「もう少ししたら梅雨になるんだし、傘は持ってる方が良いと思うけどなぁ。まぁ──持ってなかったから、夏紀はイケメンに会えたんだけどさ」

 それからしばらく青年の話をしたけれど、さやかが彼に会ったことがある、という話には残念ながらならなかった。

 さやかと別れて夏紀が帰宅すると、ピアノ教室の前に人だかりができていた。

 家の門を開けながら振り返ると、先生である旦那さん・木下良夫と目があった。まだ夏紀は中に入ったことはないが、夫婦と簡単な挨拶は交わしている。

 アプローチを歩いて玄関に向かっている途中、夏紀は良夫に呼びとめられた。良夫は「夏紀ちゃん、夏紀ちゃん、これ、どうかな」と言いながら、夏紀に一枚のチラシを渡した。

「急なんだけど、明日うちで発表会するんだよ、良かったら来て」

 夏紀がもらったチラシは、木下ピアノ教室で開かれる発表会の案内だった。
 開催は明日の午後一時から、入場無料らしい。

「近々する予定はあったんだけど全然日が決まらなくて、本当に急でね、ただ天気が良くないんだけど……。ご両親にも、伝えといてもらえるかな」
「はい……明日……予定もないし、せっかくだから行かせていただきます。楽しみにしてますね」
「良かったぁ、生徒たちにも言っとくよ。夏紀ちゃんも習いにおいで、特別に無料で教えてあげるよ」

 ハハハ、と笑うと、良夫は自分の家に走って戻っていった。

 夏紀がピアノを弾くことを木下夫妻は知っているし、夏紀もピアノを再開しようかと思っているところだった。良夫の言葉は冗談だとしても、本当に、音楽には関係していたい。

 純粋に発表会に行きたい気持ちの他に、夏紀には別の目的があった。

 いつも優しい音色を奏でている人に会ってみたかった。それは良夫かもしれないし、妻の容子かもしれない。あるいは、生徒かもしれない。

 オカリナに癒されていることはまだ木下夫妻には伝えていない。誰が吹いているのかわかってから、実は、と話すつもりにしていた。

 家に入ってしばらくしてから、夏紀は窓の外を見た。

 ピアノ教室の前には、明日の発表会の案内看板が立てられていた。
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