Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─

第31話 敢えての選択

 久々に訪れた江井市の公民館入口には、中に入ろうとしているえいこんのメンバーがいた。Harmonieとの合同練習でもあるので、Harmonieのメンバーもいた。

 朋之が来る予定とは違う日だったので車から降りるのを見かけたメンバーや篠山は不思議そうな顔をしていたけれど、続いて車から降りてきた美咲と、美咲に抱かれた美歌を見つけて全員が笑顔になった。

「美咲ちゃん、生まれたんやね」
 篠山も美咲に駆け寄ってきた──けれど、美咲の顔が暗いのを見て笑うのをやめた。
「どうしたの? とりあえず、入って」

 篠山に招かれて練習室に入ると、美咲を知っているえいこんのメンバーが「先輩!」と寄ってきた。美咲が抱いている美歌に興味を持った人も多いようで、和やかな雰囲気だった。どうして美咲がHarmonieに移ったのかは篠山から聞いていたようで、改めて説明はせずに済んだ。

 Harmonieから練習に来ていたメンバーも、美咲のところに来た。CD聞いてくれましたか、と聞かれたので、妊娠中に毎日聴いたと答えた。

 練習が始まってから、美咲と朋之は部屋の隅の椅子に移動した。美咲はずっと美歌を抱いていて疲れたので、少しの間だけ朋之に預けた。美歌は移動が疲れたのか、眠ってしまっていた。

「そうやってたら、あんたら夫婦みたいやな」
「えっ……、違いますよ……」

 篠山が笑っていたので、美咲も思わず笑ってしまった。朋之のことは嫌いではないし好きかと聞かれると〝はい〟と答えるけれど、残念ながら美咲の夫は航だ。

「先生、私……」

 美咲が言葉を探している間、篠山は待ってくれた。練習のキーボードや歌声が少し邪魔になるけれど、美咲は思いきって言うことにした。わざわざ美歌を連れてきたのは、美咲一人の問題ではないからだ。

「旦那から、離婚届渡されました」
「ええっ? なんで?」

 篠山の目が朋之のほうを向いたので、彼との関係は最初に否定した。朋之は美歌を抱いたまま、美咲の話を聞きながら練習を眺めていた。

 美咲は航に言われたことを全て話した。田舎の嫁で収まるべきではないこと、音楽の世界で活躍してもらいたいこと、美歌が物心つく前には離れていたいこと。美咲に非があるわけではなく、まだ好きだからこそ美咲の将来を考えての決断だと何度も言われた。

「あと、親戚の人に、私と山口君が一緒に歩いてるの見られてて……」
「その日、忘年会やったんです。こいつ酔ってたから付き添ってただけで……他のメンバーも一緒やったし」

 航は美咲と朋之の話を信じてくれたけれど、一度広がった噂はなかなか修正できなかったし、いまでも美咲を疑う人がいる。義両親も今は信じてくれているけれど、親戚の集まりに顔を出すのは美咲には辛かった。

「離婚したら、それもなくなるやろうって……でも逆に、逃げたと思われる気もして」

 離婚届は受け取っているけれど、美咲はまだ自分の名前は書いていない。航に嫌われたわけでもないし、航も悪いことはしていない。誰も何も悪くないのに離婚することは、美咲には考えられなかった。

「そう……。私には何もできへんけど……きれいな形で離婚するのも、アリかもしれんね。しばらく大変やろうけど、助けてくれる仲間はいっぱいいるんやから。何かあったら、別に会いに行っても良いんやし」

 答えは自分で出しなさい、と言って篠山は練習している各パートを回りに行った。航は決断しているけれど、美咲にはわからなかった。結婚当初こそすれ違いはあったけれど最近は仲良くしていたし、優しくもしてくれていた。妊娠中も気遣ってくれていた航と他人にはなりたくなかった。

「きぃ、その……急かされてはないん? 離婚届を出すの」
「うん。急に言い出したから、私が整理できてからで良いって。自分で出すか、マンションに送ってって言ってた」

 それでもいつまでも別居を続けるのは嫌だなと思う。華子を含め友人たちには話していないので、航のことに触れられると返事に困ってしまう。

「先生も言ってたけど、きぃは一人ちゃうで。何でも言うてや、出来ることはするから」
「ありがとう……私が落ち込んでたら、美歌が困るもんなぁ」

 朋之が立ち上がったので美咲は美歌を受け取り、抱き直してから寝顔を見つめた。自分の子供の頃にそっくりで、思わず笑ってしまう。美歌に本当の父親を教えなくて良いのか、離婚してまわりに何を言われるのか、いろいろ考えてしまう。

 それよりも大事なのは、これから美歌を育てていくことだ。自分が何を言われても、美歌には嫌な思いはさせたくない。父親がいなくなるけれど、助けてくれる人はたくさんいる。

「さっきより明るい顔になってるやん」
 練習を回っていた篠山が戻ってきて美咲の隣に座った。
「まだ決心はついてないけど、前向きに考えてみます」
「私も、話聞くくらいするから。うちのメンバーには入れへんけど」

 美咲が言葉に詰まって篠山が笑っているとき、入口のドアが開いて女性が入ってきた。彼女はえいこんで伴奏担当のピアニストだ。
 記憶は薄れているけれど、美咲がメンバーだった頃に出演したステージの控え室で、昼食を一緒に食べる輪の中に彼女がいた。えいこんは中学の卒業生が母体だったので篠山の教え子がほとんどで、あなたたちはあの頃からそんなだったよねぇ、とみんなに話していた。美咲の自転車事故のことといい、篠山は記憶力がすごい。

 美咲は彼女にCDの伴奏のお礼を言ってしばらく練習を見学し、ピアノ付きの練習が始まって美歌が起きる前に朋之と公民館を出た。
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