Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─

第38話 MajiでKotaえる5秒前

「あー、あかん、指が動けへん」

 美歌が十ヶ月になった夏の頃、美咲はピアノの練習を再開した。秋のコンサートの楽譜は初めて見たので一旦置いておいて、指の練習の教本『ハノン』と、過去に弾いたことがあるものを簡単な順に弾いた。簡単、と思っていても一年以上ピアノに触れていなかったので思うように指が動かず、ハノンばかり繰り返す日もあった。

 朋之にはまだ、何の返事もしていない。それでも彼は今まで通りHarmonieの用件で美咲に会いに来て、美咲が復帰する日からは迎えに来てくれた。練習でもいつも通りに指導して、帰りも当たり前のように家まで送ってくれた。母親は朋之との関係を聞いてくるけれど、何もないのでそうとしか言えない。

「きぃが答え出すまで、触れんとく」

 美咲が申し訳なさそうにしていると、朋之はそう言った。

「言ったら()かすみたいやし。どっちになっても──きぃから離れようとは思ってないし。Harmonieにおる以上、仲良くしたいやん。変に気遣ってたら、練習にならんで」

 だから美咲も必要以上に朋之のことを考えるのはやめた。ピアノを弾けるように戻すのと、コンサートの曲の練習に集中した。美歌の世話で時間が限られているので、睡眠時間も少しだけ削った。

「私は良いと思うけどなぁ。山口君て、モテてたやん?」

 そう話すのは、親戚ではなくなってしまった華子だ。親戚ではなくなったけれど、友情は今も続いていた。離婚したことと離婚理由、それから朋之との関係も、裕人が実家近くにオープンさせた店で佳樹に会ったことも、簡単に話してある。

 美咲がまだ遠くには行けないので、華子はときどき家まで遊びに来てくれた。

「うん。モテてたね」
「それにさぁ、美咲ちゃん──前にさぁ、中学のとき誰が好きやったん? って聞いたとき、私が同じクラスになってるって言ってたやん? 山口君やろ?」

 大正解なので、美咲は黙っていた。華子は同じクラスになった男子たちを思い返して、当てはまりそうな人は一人しかいなかったらしい。

「やっぱりなぁ。いまも格好いいしな。あ、こんなん言ったら遥亮に怒られるか……」

 確かに朋之は、格好いいと思う。詳しいことは知らないので断言はできないけれど、人としても立派だと思う。仕事ができて頭も良いし、趣味が同じなのできっと楽しいだろう。

「美歌ちゃんも、だいぶ懐いてるやん? 絶対良いと思うけど」
「美歌……あれは私も吃驚(びっくり)してる」

 生まれてすぐの頃から見ていたからか、お腹の中でも声を聞いていたからか、美歌が朋之で泣いたことはない。ショッピングセンターで泣いてしまったとき美咲が抱き上げても泣き止まなかったのに、朋之に交代するとピタリと泣き止んだ。

「母親としてはショックやけどな」
「ほんまやな……。パパになってもらい? 山口君に!」

 そうなればきっと、美歌は大喜びだ。もっとも美歌はおそらく、本当の父親が航だという認識はしていない。美歌のことを考えると、朋之にOKの返事を出すのが良いのかもしれない。

「何を迷ってんの?」
「あのな……迷ってはないねん」

 返事はできていないけれど、美咲のなかで答えは決まっていた。伝える一歩が踏み出せなくて、ずっと悩んでいた。

「えっ、そうなん?」

 美咲が言うと、華子はズッコケた──もちろん、椅子から落ちたり倒れたりなんかはしない。テーブルに置いていた腕が片方バランスを崩した。

「どっちなん? OKするん?」
「それは──本人に言うわ。……同級生っていうのが引っ掛かるんよなぁ。子供の時の綺麗な思い出のまま大人になってるから……」

 もちろん、今の朋之とも綺麗な思い出しかない。それは本当の姿なのか、無意識に理想像を作っているのか、美咲にはわからない。意外な一面を発見して、絶対に受け入れられる自信もない。

「山口君は、美咲ちゃんが子供のとき好きやった、って知ってんの?」
「うん。それは言った。あと、今もって」
「え? 待って、……美咲ちゃん何してるん? 二人とも、気付くの遅いな?」
「そやねん……もう十年早かったら、何も迷わんと結婚してたわ」

「美咲ちゃん……もう違うけど、私と親戚になって良かったなぁ?」
「ほんまやわ。山口君にもやけど、大倉君にも会えたし……言いたかったことは全部言えたかな」

 Hair Make HIROで方べきの定理の話をしたあと、実は気になっていたうちの一人だったと裕人に伝えた。裕人は驚いていたけれど想定内だったようで、嬉しそうな顔をしてから再び佳樹をからかって遊んだ。佳樹は、本命は誰だったのか、と聞いてきたけれど、もしかして離婚していて再婚するのかと聞いてきたけれど、何かを思い出して朋之の名前が出てきたけれど、美咲と裕人は敢えて教えなかった。本命は絶対に佳樹ではない、と口を揃えて言うと、彼は不服そうな顔をして自分の話に変えた。

 そのことは朋之にも、彼が店に来たときに裕人が伝えた。朋之はしばらく鏡に映る裕人を見つめていたけれど、長い沈黙のあとに、ふぅん……、と言ってそれ以上は突っ込まなかったらしい。

「あ、そうや、元旦那さんのことは?」
「それもなぁ……忘れられるわけないやん? 家はあれやけど、航はまぁ、私の意見も聞いてくれてたし。今だって、養育費くれてるし……」

 美歌との繋がりを持ってくれているのに、再婚して朋之の収入があるので養育費は要りません、と言ってしまうのも辛い。航を美歌から遠ざけるようで、それは言いたくない。もちろん、朋之の収入で生活できるのに余計に養育費を貰うのも、それはそれで辛い。

「じゃあ──断るってこと?」
「うーん……」

 朋之との再婚を断った場合、美咲が働くか他の誰かを探すことになる。けれど三十代後半で子供がいるとなかなか探す時間はないし、相手が初婚だった場合はけっこうハードルが高い。

「断るんやったら、どうしようかな……」
「何かあるん?」
「また同窓会しようかと思ってたんやけど……あ、まだ早いから何年か後にな。こないだ、ライブハウスで彩加ちゃん見っけてん。次は顔出す、って約束してくれた」
「──あっ、良いこと思い付いた!」
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