イケメンシェフの溺愛レシピ
「こんばんは」

その週末の午後九時少し前。予約なしでも空席ができる時間帯を狙って綾乃はコン・ブリオを訪れた。
赤い、情熱的なワンピース姿の綾乃が笹井マネージャーに案内されるままに顔を見せると、哲也は驚きながらも厨房の奥から笑顔を見せた。

「連絡してくれたら席を用意したのに」
「今日は、カウンターであなたの仕事姿を見たいなって思って」

言いながら、満席のディナータイムのテーブル席を横目に、綾乃はカウンターに腰かけた。
ランチタイムこそ気軽に訪問していたものの、連絡せずにディナータイムにコン・ブリオを訪れるなんてことは、初めてだった。

「まずはスプマンテ?イタリアのビールにするかい?」

その哲也の問いかけに、綾乃は迷う素振りを見せて言った。

「両方…といきたいところだけど、欲張るのはよくないわね。どっちも中途半端になっちゃうから。」

そう言ってふふふと微笑むと、スプマンテを一つお願いした。

やがて、若い新人スタッフ…とは言っても、もうだいぶ一人前になってきた内田圭太に細いグラスにごく淡い柔らかなイエローの、気泡のはじける液体を注いでもらうと、カウンター越しの哲也に乾杯と笑顔を見せて口をつけた。

それからプリモ・ピアットの真鯛のカルパッチョに、セコンド・ピアットのホタルイカのリゾット。まだ寒い2月。どこから仕入れてきたのか春の香りがしていて、そのどちらも哲也に以前番組で紹介してもらった活用したアレンジになっている。
そう、あのときの収録は本当に大変だった。まだ二人が付き合っていなくて、お互いの気持ちはわからなくて、それでも一緒にいい仕事ができたことを喜んだ。

思い出の味は、いつだってその瞬間に連れて行ってくれる。そうして春がまた来るのを感じる。一緒に築き上げた宝物は、生涯なくならないだろう。

一つ一つを噛みしめるように味わって、いよいよドルチェ、というときだった。

「久しぶりだからね。きちんと乾杯しよう」

カウンター席の隣に現れたのは哲也だった。右手には赤ワイン用のグラスを2つ。それから左手にあるボトルには、amoreの文字があった。

哲也が着座した瞬間を見計らって、その横からすかさずホールスタッフの内田圭太がティラミスを差し出した。
イタリアの真っ白いプレートに盛り付けられたのは、ベリー入りのピンクのマスカルポーネに、トッピングにもふんだにいちごやラズベリーをあしらった一皿。思わず視線を奪われる。それは、忘れるはずのないティラミスだった。
そのとき、綾乃は不覚にも泣いてしまった。泣くつもりは、一ミリだってなかった。

「そんなに喜んでくれるなんて。嬉しいねえ。俺は、君が喜ぶなら毎日だって作るよ。」

言いながら、哲也は俯いた綾乃の頭を撫でた。まだシェフコート姿の哲也が、1人の女性を泣かせている光景は注目を集める。何事かと周囲は一瞬ざわつく。それでも淡々と作業をするスタッフたちの変わらない姿に、周囲の客たちもまた自分たちの会話に戻っていく。綾乃はその様子に安堵する。誰かにわかって欲しいわけじゃない。認めて欲しいわけでも、知っておいて欲しいわけでもない。
ただそのティラミスは、哲也のゆるぎない愛情を伝えるのに十分すぎるものだった。

そうして綾乃は一呼吸して鼻をすすって、ひとつ大きな深呼吸をすると、哲也に言った。

「私、仕事を辞めるわ」

その綾乃の言葉は、コン・ブリオのほどよい活気の中に埋もれることはなかった。
綾乃が顔を上げると、哲也が目を見開いていた。いくら冷静を装っていても、困惑していたのがすぐにわかった。

「あなたのそばにいる。それ以上に大切なことはないと、確かに思えるの」

まだ少し目を潤ませたまま、綾乃は笑顔を見せた。思わず涙が零れたのは、今まで積み上げてきたものを失う恐怖があったからだけでなく、今まで築き上げた哲也との宝物が、これ以上増えないからだと思った。
もうあんなふうに違う立場からお互いをぶつけ合って、必死に一つのものを作り上げる喜びも感動も、ないのだと思ったから。

それでも、愛する人と同じ夢を描いた偉大な女性たちの笑顔が綾乃の頭に浮かんだ。背中を押してくれた言葉は、きっとこれから何度も綾乃を励ますだろう。
同じ方向を見て、同じ夢を分かち合っていきていきたいたった一人の人。逃しちゃいけない。

綾乃は哲也の手に触れた。その手は、おいしいものをたくさん生み出して、たくさんの人を笑顔にし、元気にする。

「これが私の思った通りの生き方よ。あなたと一緒に、たくさんの人を元気にしたいの」

思った通りに生きるきみが好きだと言ってくれた哲也に、綾乃はやっと返事ができたと思った。

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