イケメンシェフの溺愛レシピ
哲也がコン・ブリオとたけ久をグループ企業にした際、綾乃をその社員にしたのだ。動画などで自社レストランや商品の魅力をアピールするのが、綾乃の主な業務だ。
そしてそれに関するメディア対応なども綾乃が手伝っている。

「園部さんから雑誌でも並行で企画を進行したいって連絡来てるわ。ゆくゆくは書籍化も視野に入れてるって!」

パソコンをチェックしながら、まだシェフコートを着たまま隣に座ってグラスの水を飲む哲也に綾乃は言った。

「動画で紹介したものを紙面でもってことか」
「いいじゃない。たくさんの人に知ってもらいましょうよ。書籍になったらもっとしっかり形に残せるし、手に取って繰り返し楽しんでもらえるはずよ。もちろんコン・ブリオの宣伝にもなるし、これがうまくいけばたけ久でも同様の企画が実現できるかもしれないわ」

興奮気味に言う綾乃を見ながら、哲也は小さく笑った。

「なによ」
「もう嫉妬してくれないんだなあって」
「…!」

綾乃はつい顔を赤らめた。そう、かつては雑誌の連載でやりとりをしていた園部さんという編集者に、綾乃は見えない不安を感じていたのだ。

でも今は違う。入籍して、名字も同じになって、大切なものを日々一緒に分かち合っていた。
綾乃の願いはひとつ。哲也が大切にしているものを一緒に育てて、大きくして、広げていくこと。
テレビ局でディレクターをしていた頃よりもシンプルでより分かりやすくなったともいえる。
そのきっかけを与えてくれたのは哲也はもちろんのこと、周囲の人たちだ。

「ハーイ、アヤノ!撮影の時間ダヨー」

コン・ブリオの入り口から姿を見せたのは、結局まだ日本に滞在しているフラヴィオ・マンチーニ。
次の動画では、スペシャルゲストとしてフラヴィオに登場してもらって、二人の思い出の修業時代の料理を紹介してもらうつもりだった。

美味しい料理は心に残る。そしてそれらにストーリーがあればもっと心に残る。心のこもった料理は、ずっと忘れられず人の心に残るのだ。
綾乃の胸には、哲也が作ってくれた忘れられない料理がいくつもあった。それらは今も鮮明に思い出せる。いつも綾乃を押し上げてくれたティラミスがあったからこそ、ここまでやってこられたといえる。

「こんにちはー!助っ人参りましたー!」

続いて扉から元気よく顔を見せたのは智香だった。
智香は綾乃の後を引き継いでディレクターに昇進しながらも、空いた時間は副業でコン・ブリオの撮影と動画編集を手伝っていた。ゆくゆくは綾乃のようにテレビ業界に囚われずにマルチに番組を作り上げていきたいと言っている。いろいろな形でやりたいことができるのだと、綾乃から教えてもらったと智香は言った。
そのことが嬉しくないはずがない。いつか自分がそうしてもらったように、綾乃も大切な誰かを勇気づけられる自分でありたいと思う。

「あ、公開した動画に一番乗りのコメントきてます」

パソコンをチェックした智香がコメントを読み上げた。

「‘さすが綾乃さん。すばらしい編集となっておりますね。わかりやすく、インパクトがありますよ’…ですって!」

Ishizakiというアカウント名に、アイコンは竹林の写真。それはたけ久の本店の中庭の景色のようだ。それを見るなり、一同はみな誰がコメントしたかを瞬時に察して笑ってしまった。まぎれもなく、このコメント主は哲也の母親だ。
綾乃に仕事を辞めて夫を支える妻としての覚悟を持って欲しいと願っていた哲也の母親も、このサポートの仕方は120%で満足しているらしい。

次の瞬間、またドアが開いた。

「綾乃ちゃん、タケノコたくさんもらったんだけどどうかなあ。哲也くんなら春のイタリアンに使えるよねえ?」

春らしい黄緑色のカーディガンを羽織って、さっぱりとしたパンツスタイルで、すっかりプライベートな仲良しになった割烹かわかみの女将がタケノコの入った袋を片手に登場した。

その立派なタケノコを見るなり一同は歓声をあげる。

「パスタ、ピッツァ、リゾット、どれでもおいしそう!」
「アクアパッツァに入れてもよさそうですよね!」
「カルパッチョは?」
「フリッタータにも使いたいな」
「ワインはシチリアの白だね」
「冷えたものをご用意してあります!」

コン・ブリオに集まったメンバーとスタッフたちは口々においしい想像を飛び交わせる。哲也と出会って広がった世界が、さらに広がっていく瞬間だった。
一生懸命やっていると、道ができて、世界が広がる。そして大切な存在がどんどん増えていくのだ。

「急いで準備して、タケノコの撮影も同時進行しちゃいましょう!鮮度が大事よ!哲也ならすぐにアイデア出てくるでしょう?」

とれたてのたけのこをおいしいうちに料理にして欲しかったし、撮影も早く行って、できるだけ早く動画を公開したかった。4月も半ば。もう収穫のピークを迎えている地域がほとんどだ。タイミングを逃したらもったいない。

仕事ばかりで恋愛なんて縁がないと思っていた綾乃が世界にたった一人を見つけたように、ずっと続けてきたテレビ局の仕事とは違う形で自分のやりたいことを見つけたように。
タイミングはすごく重要だ。
今がそのチャンスだと思ったら、思い切って飛び込んでみるのも、きっと大切なこと。

大変なことはいつだってあるし、不安ももちろんある。
でも大丈夫。
彼がいつだってとびっきりの溺愛レシピをくれるから。

慌ただしく綾乃はテーブルにたけのこを並べて撮影の準備に取り掛かる。
その様子に哲也が笑いながらも、了解と早速準備に取り掛かった。
哲也は立派なたけのこを手に持って、綾乃の欲しいコメントをしっかり言葉にして、息の合ったテンポで撮影が始まる。

と、思ったらカメラは停止されて、綾乃と哲也の言い争いが始まる。

「説明が長い!もっと端的にしないと視聴者は飽きちゃうでしょ!」
「重要なポイントなんだから仕方ないだろう?この後の流れを見てからカットする部分を決めてくれ!」

相変わらず騒がしい二人に思わず周囲は笑ってしまう。
でもこれは‘おいしい’を生み出すために不可欠。

そんな世界で一番おいしい関係を、仲間たちが温かく見守ってくれていた。

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