弊社の副社長に口説かれています
それまではいつも通りに楽しく会話もしていたが、セントラルホテルに入る頃には尚登の言葉少なくなっていた。だが特に気にもせず手を繋いだままエレベーターに乗り込み、降りる時はさすがに恥ずかしいと離したが、尚登はすかさず陽葵の肩を抱いてしまう。店の出入口はすぐそこだ、ボーイに見つかり微笑まれ、陽葵は恥ずかしさが増す。見覚えがあるボーイだ、先日尚登を叩いたことはどこまで知られているのだろうか。皆、忘れてくれていたらいいのだが。

案内されたのは先日とは違う個室でやや狭い。その部屋にある四角いテーブルの下座の席に並んで座ると尚登はお茶を頼む、食事は頼まなかった、ランチをコース料理で頼んでいるのだろうと陽葵は静かにその時を待つ。
特に会話もないことを不思議に思いながらも待っているとドアがノックされた、ドアをボーイが開き、案内されて入ってきた人物の姿を見た瞬間、陽葵は凍り付く。

「……お父、さん……」

スーツ姿の中年男性の姿を見て出た声は、息にしかならなかった。父、京助(けいすけ)と会うのは何年ぶりだろうか──白髪と皴が増えて老けた印象だ。京助は陽葵の記憶にある優しい笑みで挨拶をする。

「尚登さんですね、初めまして、連絡をくれてありがとう」

出入り口まで京助を迎えに出た尚登も挨拶をし握手をすると、中へいざなった。尚登が父と連絡を取っていたのだと初めて知った──いつの間に。

「陽葵」

尚登に呼ばれ陽葵も慌てて立ち上がる。そばに立った京助はなんとなく小さく感じた、確かに数年会っていないが、お互いそんなに身長は変わっていないだろうに。

「会えて嬉しいよ、最後に会ったのは何年前かな。きれいになったね、うん、お母さんによく似てきた」

そんな言葉に陽葵は唇を噛む。似てきた相手は亡くなった実母、陽葵の記憶には遠くにいるその人物だ。

「尚登さんから連絡をもらって、お付き合いさせてもらっていますなんて言われた時は驚いたけれど、嬉しくもあって、なかなか複雑なものだね」

嬉しそうな声もややしわがれているのが、離れていた年月を感じた。

「いやいや、好青年で安心したよ」
「ありがとうございます、本日はご足労いただき申し訳ありませんでした」

尚登が言えば、京助も答える。

「とんでもない、陽葵に会えるのが楽しみでした」

尚登は着席する前に名刺を取り出す、京助も名刺を取り出し交換した。

「改めまして、高見沢尚登と申します」

自己紹介もすれば、笑顔で名刺を見た京助の顔がはっとする。

「……取締役とは……」

末吉商事自体は一般市民の生活に密着した企業ではない、だが大がつくほどの企業だ、年齢を重ねた者ならばその名を知らぬものは少ない。そのような企業の役名に京助は素直に驚く、どうみても若い尚登がそれほどの役職にあるとは──。

「しょせん家族経営の肩書きです、あまり気にしないでいただけるとありがたいです」

尚登は恥ずかし気に言う。そんな言葉で辞めると公言するのは本気なのだろうと陽葵は感じた。
名刺をテーブルに置いた京助はふと首を傾げた。

「……陽葵とは、同じ会社で知り合ったと伺いましたが……」
「はい、間違いありません、陽葵さんは新卒で当社に採用されております」
「……末吉商事は、プラントなど、箱モノだけを手掛けておられますよね……?」

何にショックを受けているのか、陽葵も尚登も判らなかった。尚登が気付き座るよう勧めて互いに腰かける、京助の椅子を引いていたボーイが部屋を出て行き、京助が口火を切る。

「すみません──私は、陽葵は生命保険の会社に入社したと聞いていました」

この時まで、その会社で知り合ったものだと思っていた。

「──どなたからです?」

陽葵の疑問を尚登が聞く。

「妻から……新奈(にいな)からです」

陽葵は必死に首を左右に振った、継母が陽葵の就職先など知るはずがない、なんの連絡も取っていなかったのだ。しかも生命保険会社などと嘘をつくとは──反論は激しい呼吸にしかならなかった、ああ、またかと焦る心を尚登が手を握ってくれたことで鎮めることができた。その手に自身の手を重ね、ゆっくり息を吐く。

「──お電話でも話しましたが、陽葵さんはご家族から虐待を受けていたことがトラウマになっています、ですから今日もお父様だけとお会いしたいとお願いしました」

できるならもう少しゆっくりと話をしたい、時間を気にせず夜か休日にでも──だがそれでは新奈にバレてしまうとこの時間にしたのだ、それならば仕事だと誤魔化せる。

「もう何年も家に帰ることも、連絡すら取っていないと聞いています。なのに何故、奥様は陽葵の動向をご存じなんでしょう」

尚登の言葉に京助は俯いた、恥ずかしながら陽葵の動向は新奈を介してしか聞いていない。陽葵はどうしてるだろうと聞けば新奈はするすると答えてくれたものだ。
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