弊社の副社長に口説かれています
17.一難去って……
陽葵たちはいつもと変りなく仕事を終え、定時より少し遅れての退社となった。揺られる電車内で向かい合わせで立ち会話をしていると、尚登の軽やかな話し声に勝手に笑みがこぼれた、愛おしそうに見つめる視界に自分がいることに心が満たされていく。

「──尚登くんに出会えてよかった」

唐突な告白に尚登は「ん?」と首を傾げる。

「私、今まで自信がなかったんだと思う。でも尚登くんがずっと好きって言い続けてくれて、こんな顔になっても嫌いにならないでいてくれるから、私は私でいていいんだって自信が持てるの」
「馬鹿だな」

尚登は陽葵の髪を梳くようにして頭を引き寄せ、自身の胸に陽葵を収める。

「陽葵は誰よりも頑張って生きてきた、誰よりも自信を持っていい」

尚登の言葉に陽葵は小さな声で「うん」と答えていた、尚登が認めてくれるだけで嬉しかった。

「顔の怪我なんか些細なもんだ。俺は陽葵そのものを好きになった」
「ありがと」

小さな声で答え、確かにと陽葵は思う。たとえ尚登も同様に怪我をしたところで嫌いになる要素ではない、陽葵も尚登そのものを好きになったのだ、同じ気持ちならなおのこと嬉しい。

駅に着けば、すっかり暗くなり寒くなった街を自宅マンションに向かって手を繋ぎ歩く。そんなこともすっかり慣れ当たり前の光景になっているのが嬉しい。

「そろそろ鍋が恋しいな」

尚登が襟元を直しながら言った、寒い時期には一番のご馳走だ。

「本当だね、土鍋ないや、今度買いに行こうね」

どうせなら金属製の物よりは土鍋の方がいい、笑顔で提案すれば尚登も笑顔で応える。

まもなくマンションという辺りまで来ると尚登は鍵を取り出すためにコートのポケット探る。陽葵はその時マンション前に立つ女性は見えたが、電話をしている様子に誰かと待ち合わせしているのだろうかと思っただけだった。
鍵を手にした尚登の歩みが一瞬止まったのを感じた、息を呑んだ気配も感じる。なんだろうと陽葵が聞く前に、尚登は言葉を発した。

Jenny(ジェニー)?」

尚登が声をかければ、女性は長い金色の髪をなびかせて振り返った。そのはちきれんばかりの笑顔にドキンと陽葵の心臓が跳ね上がる。

「Nao!」

尚登の名を呼びスマートフォンを握り締め走り寄ってきた、その笑顔すら眩しかった。髪は金髪に染めているとは陽葵には判らない、だがアジア系の顔立ちからもハーフだとは判った、尚登の呼びかけからもアメリカ時代の友人だろうかと想像できる。

「Why are you here!?」(なんでお前がここにいるんだ?)

尚登が声を上げ、その足を止めさせた。

「He told me you wanted to see me.」(あなたが呼んでるって)
「Huh? I didn’t call you……Who told you that?」(はぁ? 呼んでねえし……誰に言われた?)
「Theodore. He didn’t tell you?」(セオドアよ。聞いてないの?)

尚登は大きなため息とともに頭を抱えた、マーシャルアーツの指導に派遣したというコーチだろう。誰とも教えてくれなかった相手がよもやJenny(ジェニー)──Jennifer(ジェニファー)だとは。

陽葵は尚登の英語での会話に感心していた。陽葵は英語の成績自体はよかったが、しょせん机上の話だ。ネイティブスピーカーと言葉を交わしたのも授業だけである。二人の会話のスピードについていけなかった、難しい単語が出たわけではないが、その意味を理解している間に話は進んでしまい内容まで把握しきれない。

(ウォンテッド……探してる? セオドアって、尚登くんがアメリカでお世話になっていた人だよね)

「あんのクソジジイ……」

尚登は日本語でつぶやいた、その相手がセオドアだと陽葵はすぐに判じた。

『なんでジェニーがセオのとこにいんだよ』

尚登はなおも不機嫌に聞く。

『ナオがセオドアのプログラムの手伝いをしてるって聞いたの』

ジェニファーは淋し気に微笑みながら言った、陽葵がその笑みの意味を理解したのは女の勘か。

『でも私が行った時にはあなたは日本に帰った後だった。でもあなたの痕跡が嬉しくて、今は働かせてもらってるの』

施設には何枚もの写真や動画もあり、それを見ているだけで満たされていた。

『そしたらナオから連絡があったって言うから、会いたくて』
『俺とのことはセオには話したのか?』
『話してないわよ』

だろうなと尚登は思う、いくら豪快なセオドアとはいえ元カノと知っていて送り込むことはないだろうし、送り込むにしても一言くらい添えるだろう。

『うんと前のことで、あなたの名前を出すのはおかしいと思ったし』
『そういうことだ、遠い昔のこと。ジェニーとはもう終わってる、俺は会いたいとは思ったことがない』

尚登が冷たく言えば、ジェニファーは唇を噛んだ。そんな表情だけで陽葵は理解できた、この女性は尚登が好きなのだ──尚登とつなぐ手に力が入った、それに尚登は気づく。

「悪いな、元カノだ。高校ん時の」
「……高校?」

それはまたずいぶん昔の話だと思ってしまった、尚登の年齢を考えれば10年以上前のことになる。

「そう、見てのとおり日系で、日本語を覚えたいって言って声をかけてきたのがきっかけ」

尚登も英語が完璧に喋れたわけではないが、気にもしないで現地の子が通う高校に通い始めた。すると同級生だったジェニファーが声をかけた、曾祖母が日本人だが日本語が判らない、勉強したいというのだ。だが英語を覚えたい尚登は他を当たれと断った、だが元より日本人は多くない地域だ、そしてジェニファーの熱心さに負け、ならば学校の外でならと会ううちに恋人関係になった。
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