そして消えゆく君の声
「――」
 

 暗闇のなかで何か聞こえた気がしたが、確かめることはできなかった。


 全身が重い。腰まで泥に浸かっているようで、前にも後ろにも進めない。全身を押しつぶされるような閉塞感は、高熱を出した時に似ていた。

 右目の奥がずきりとして、咄嗟に手のひらを押し当てる。

 辺りにはひとつの色もなく、自分が夢を見ていることは明らかなのに、どくどくと脈を打つ心臓も、連動するように神経に伝わる痛みも生々しい。全身が感覚器になったように、ひとつの部位に集中している。


 この傷は、何だったか。
 視力を失わなかったのが不思議なほど強く抉られた傷。電灯の下で輝いた刃。逆光で見えない瞳。


 そうだ、これは。

 これのせいで、あの人は。


「……あ」


 思い至った瞬間、全身の毛穴が開く。
 胸を引き絞られる感覚と、爪先から吹き抜ける脱力。

 動かしようのない事実が濁流のように押し寄せてきて、喉奥から意味をなさない呻きが漏れた。

 
(俺が)


 今まで数えきれないほど口にした言葉が迸る。

 俺が、一人にしなければ。
 もっと早く止めていれば。
 上手く避ければ。入院なんかしなければ。

 違う。そもそもあんな怪我をさせなければ。くだらない嫉妬をしなければ。飛行機を持ち出さなければ。ちゃんと話を聞いていれば、こんなことには。全部。


 黒い波がごうごうと音を立てて、全身を呑み込んでいく。水の底にいるような隙間のない闇。何も見えない。誰もいない。

 深く、深く沈んでいく全身。やがて訪れた静寂のなかで、震えを帯びた声が脳から鼓膜へと伝わった。



『私はこれまでじゃなくてこれからの話をしたい』

 
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