非・溺愛宣言~なのに今夜も腕の中~
菱山商事を後にした楠木は、駅前からタクシーに乗ると、閑静な住宅街で車を降りた。
震える指でインターホンを鳴らし、名前を告げると、華やいだ声が、しばらくそこで待つように告げる。

ここに来るのは何年ぶりだろう。
大きな外国風の門構えの奥には、昔の洋館を思わせる趣のある建物が立っている。

しばらくすると自動で門が開き、楠木はゆっくりと中へ足を踏み入れた。

昔から顔なじみの使用人と挨拶を交わし、家族が使用しているリビングのソファに腰かける。
運ばれてきた紅茶には手を付ける気になれず、そのまま身を固くして待っていると、ゆっくりと入り口の扉が開いた。

楠木は、入って来た姿に途端に目を奪われる。
まるでその場が、急に花畑になったように感じるほど、可憐な笑顔だ。

――この笑顔のためだった。

楠木の脳裏には、初めて菱山の家に引き取られた日のことが蘇る。
幼い妹の幸せを守ること。
それが引き取ってもらった菱山のためにできる、唯一の恩返しだと思った。

楠木は静かに立ちあがると、緊張でこわばった口元を開いた。

「紫、聞きたい事があるんだ」

紫は不思議そうに首を傾げていたが、小さくうなずくと、楠木の正面に腰かけた。
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