幸せの器

仲田さんのありがとうには、毎回心がこもっている。それは放課後以外に会った時でもそう。例えば、今日の天気を教えた時。肩に付いた糸屑を取ってあげた時や、朝会った時に仲田さんが上履きに履き替えるのを待っていた時なんかもそう。仲田さんはいつも気持ちのこもったありがとうをくれて、その度カランと音が鳴った。

仲田さんは自分の思いを言葉に乗せて周りにお裾分けしている様な人だった。だから彼女の幸せは相手にも伝わり、結果相手も幸せになる。それは僕には思いつきもしなかった手伝う以外の人を幸せにする方法だった。

「仲田さんはすごいね」

二人で並んで教室へと向かう中、仲田さんからのおはようの眩しさに眩んで、思わずついて出た言葉だった。キョトンとした顔で、何が?と、彼女は首を傾げている。

「なんて言うか、いつも素直で何事にも誠実な人だなと。仲田さんのそういう所、尊敬する」
「きゅっ、急にどうしたの? それは坂下君でしょ。聞いたよ、いつもクラスの仕事手伝ってるんでしょ? そんな人なかなか居ないよ」
「いや、僕のは別に……自分の為にやってるだけだし。時期が来たらやめると思う」

あぁそうだったと、仲田さんの言葉ですっかり忘れていた目的を思い出した。最近は手伝う事が習慣になっていてあまり気にしていなかったけれど、期限まで残り約一週間という所まできていた。器の中身は大分貯まっている。何故ならいつも、仲田さんがたくさんのありがとうをくれるからだ。

「時期? 時期って何の?」
「うーん……僕の願いが叶ったら、というか……」
「願掛け的な事?」
「……うん、そんな感じ」

でも僕はまだ肝心の願いが決められていないので、掛ける願がない状態での願掛け中という事になる。完全に可笑しい。

「あの……どんな事を願ってるのか、聞いても良い?」

なんだか申し訳無さそうに尋ねる仲田さんに、悪い事なんて一つも無いのに、と思う。でも答えたくても願いが決まっていないのも事実。一体僕の願いってなんだろう……なんでも叶うとなると逆に難しい。何か欲しい物あったかな。こうなったら良い、みたいな事とか……

「なんちゃって! ちょっと聞いてみただけだから気にしないでね。ほら、願い事って人に言わない方が良いって言うし!」

黙り込む僕にそう言う仲田さんは笑顔だったけれど、そこには遠慮がチラリと見られた。きっと僕が考え込んだのを見て、答えたがっていないものと受け取ったのだろう。仲田さんに気を遣わせてしまった……僕に気を遣う事なんて無いのに。もっと思ってる事を言ってくれて良いし、仲田さんには話したいと思っているのに……あ、そうか。

「僕はもっと仲田さんと仲良くなりたいかな」
「……え?」
「僕の願い。仲田さんが僕に気を遣わなくなって、僕も仲田さんがくれるありがとうみたいな、そんな幸せをもっと仲田さんに返していけたらいいなって……まぁ、願掛けとは違うけど。実はまだ決まってなくて……あれ? 仲田さん?」
「……」

どうしたの?と、顔を覗き込むと、仲田さんは顔を逸らしてなんでもない、とだけ答える。なんだか様子が可笑しい。

「そ、そうだった! 今日の分の宿題がまだ残ってるんだった! 急いでやらないとだからまたね!」
「あ、うん」

矢継ぎ早に言葉を繋げると、仲田さんはパタパタと慌てた様子で教室へと向かっていったので、僕はそれを見送った。そっか、宿題忘れたの思い出したから変だったのか……大丈夫だったかまた放課後に会った時にでも聞いてみよう。

——なんて、その時の僕は暢気に考えていた。今となれば何故あの時に気が付かなかったのかと、のんびり構えていた自分に後悔しかない。何故ならその日その瞬間から、仲田さんは僕と距離を置くようになったからだ。

声を掛けても仲田さんと目が合わなくなって、仲田さんの言葉に心がこもらなくなった。いつものあの音が鳴らない。目を逸らされて、どこか上の空な返事しか返って来なくなってしまったのだ。どうしてだろう……あの日、僕が仲良くなりたいなんて言ったから? 仲田さんはそう思っていないのだとしたら、悲しいけれど納得がいく。

気がつけば、あんなにやる気に満ちていた幸せ集めに身が入らなくなっていた。だって僕が幸せを集める為に何かをした所で、もう仲田さんが笑ってくれる事は無いのだし、仲田さんを幸せにする事は出来ないのだから。仲田さんの幸せが、仲田さんのありがとうが、僕は一番嬉しかったのに……。

……あれ? ちょっと待て。仲田さんのありがとうが嬉しいって? 僕は仲田さんのありがとうが欲しくて幸せを集めていたの? そんなのまるで、仲田さんじゃなくて僕が幸せにして貰っていたみたいだ……いや、みたいだ、じゃない。正しくその通りだ。ずっと僕の方が仲田さんに幸せを貰っていたんだ。

思い返してみても、僕が仲田さんの為に出来た事なんてこれっぽっちも思い浮かばなかった。つまり、仲田さんのありがとうを通してガラス玉が貯まったのは、僕が何かをしたからではない。仲田さんが自分の幸せをありがとうにのせて分けてくれていたからで、それが僕の情けない答えだった。


もうすっかり習慣となっているクラスの手伝いとゴミ拾い。ガラス玉はこつこつ貯まって、あともう少しで器が一杯になる。今日のゴミ拾いも仲田さんはありがとうと言ってくれたけど、カランと音は鳴らなかった。分かっているのに繰り返すのは、僕がただ仲田さんに会いたいから。気まずい思いをさせてるのは分かってるのに、僕はいつまでこんな事を続けるのだろう。情けない。

帰宅後、机の上を確認すると、いつの間にか一杯になった器がキラキラと輝いていた。今日の手伝いで貯まったのだろう。これで放課後彼女に会う理由も無くなってしまうなと、心がチクリとした。

——その晩。僕はまた、あの夢を見た。

「やぁ、器が貯まったんだね」

真っ白な空間の中、ぽつりと佇む僕に天から声が降ってきた。手の中にあるガラスの器は、満杯の中身と合わさる事でより一層眩く輝いていて、この輝きの正体が幸せだとしたら、幸せとはなんて綺麗な物なのだろうと今更ながらに感動した。けれど、それとは裏腹に僕の心は晴れない。

「では、君の願いを叶えてあげよう」

ついにこの時が来た。僕の願いは? キラキラ輝く手の中の幸せを眺めながら、僕は同じくらいに輝くあの笑顔を思い浮かべていた。頭の中に浮かぶのはいつも、ありがとうと言ってくれる仲田さんの笑顔。それが、僕の幸せだった。

「人の心を変える、とかでも可能ですか?」

天に向かって声を掛けると、もちろんだと返事がある。本当に何でも叶うらしい……こんな、あり得ない願いでも。

僕は仲田さんと仲良くなりたい。あの日、彼女に告げた言葉は本心で、今でもずっと思っている。でも僕は知っている。仲田さんはそうではない。僕から離れていった仲田さんはもう、あの頃の様な言葉を僕にはくれないのだから。

もし今ここで、僕が仲田さんとの仲を取り持ってくれと願ったなら、願った通りに仲田さんと仲良くなる事が出来るのだろうか。もし僕がここで、仲田さんの特別になりたいと願ったら……仲田さんの気持ちとは関係無く、僕の思った通りの関係になる? それなら僕は……僕は、それで本当に幸せ?

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