それぞれの恋物語

第6話 ~ 羅針盤を失った船 ~

今ここで起こっていることは、たわいもなく小さなこと。
宇宙創生からの壮大なドラマの中では、瞬時で過ぎ去る時空での出来事。
それでもたった今、自分に起こったことへの戸惑いと、
自ら抱く疑惑の念に纏わり憑かれ藻掻き、永遠と思える程の空虚な時空を漂っている。



 昨日まで一緒に居た麻美が、生涯で唯一共に将来を添い遂げる人だと思っていた。その彼女が、今日、家を出て行った。
 出て行った彼女が整理した棚やキャビネットに残ったオブジェは、全て自分だけのモノとなり、昨日まで賑やかに飾られてあった麻美の生活用具は一切なくなり、それらの場所にはモノが置かれていた痕跡だけが残っている。その痕跡たちが、より一層この部屋を、空虚の空間へと導いている。
 夏の終わりの陽が沈む直前の淡いオレンジ色の陽射しが、窓から差し込み始めると、一人佇むリビングの空間に静寂さが訪れ、侘しさだけが部屋一杯に辺りを埋め尽くす。彼女が出て行ったあと、ただ、時間だけが過ぎ去っていった。

 “今日一日、自分は一体何をしていたのだろうか?”

 やがて、陽は沈み真っ赤ない色をした地平線から宙に向かって澄み渡った紺色の宇宙色へと美しいグラデーションを奏で始めると、部屋の中は急速に薄暗くなり、闇の訪れとともに大きな悲しみが、海岸に打ち寄せる波の様に大きくうねり覆い被さってきた。

 長年一緒にいた彼女が、自分から去っていった理由は、結婚に踏み込めない自分と、先の見えない将来に不安を感じたからだ。
 そして、何より深く落ち込み考えさせられることは、彼女は別の男性と将来を歩むことを決めたことだ。魅力ある彼女に見知らぬ男性が近づいていたのは知っていた。だが、彼女が自分から離れていく筈がないと高を括っていた。

 ある日の夕食後、彼女とこんな会話があった。

 「私たち、今後どうするの?」
 「どうするって、何を?」
 「どうするって、結婚のこと」
 またか。ここ最近とくに彼女から結婚の話を持ち掛けられる。いささか、この会話にもうんざりしていた。
 「この間も話したじゃん。いずれ、いずれだよ」
 そう返答し、これ以上の会話を避けるが如く、早々にイヤフォンを耳に入れ、携帯で音楽を聞きながらネットニュースを読み始めた。そんな自分の姿で察した彼女は、これ以上会話を続けるのに諦めた様子で席を立ってキッチンで洗い物を始めた。

 確かに今は結婚に踏み切れない。何故なら、将来に向けてもっとしっかりとした基盤を築いてから、確実な結婚後の生活をすべきと考えていたからだ。結婚には、責任があると考えている。
 しかし、彼女は、結婚とは今も将来も何も変わらない生活の延長と考えていた。彼女は、仕事に夢や希望などなく、生活していく為の糧だけだと割り切った考えだ。
 事実、彼女は安定した職業に就き、これまでも生計を一緒に立てて来た。だから、結婚してからも堅実に歩めば、しっかりとした生活は築いていける、今も後も変わらないというのが彼女の意見だった。

 彼女が家を出ていく一か月くらい前のことだろうか。その日は残業もなく、いつもよりも早め帰宅する予定だったが、高校からの友人である新井真一から臨時会合の連絡がきたので快く参加の旨を承諾し、定時上がり後、友人との待ち合わせ場所に向かっていた。高校時代からの友人である真一とは、定期的に互いの近況報告をしている。真一とはよき友であり、よき友だ。
 “臨時会合を開くっていうぐらいだから、よほどの事があったに違いない”
どんなことだろう、と考えなら指定されたお店に向かった。

 丁度お店に入る前に、彼女から仕事で今日は遅くなる旨のメッセージが入った。自分も友人と会う約束をしているので、遅くなることを彼女に返信しておいた。

 “いらっしゃいませ。ご予約は入っていますか?”

 そうお店の店員に声をかけられたので、友人と約束に時間で予約していることを店員に伝えると、既に真一は到着しているらしく、店員に部屋まで案内された。
 「こちらで、御座います」店員が、ここの個室まで案内してくれた。
 個室のふすまを開けて、中を覗いてみると、「ひさしぶり!元気でやってる?」と、向かい側で既に先に飲んでいる真一が声をかけてきた。
 「久しぶり。まあまあかな。そっちはどうなの?」
 「元気でやってるよ」そう答える今夜の真一は、自信に満ち溢れていた。
 「新井は、何か良いことあったみたいだな」
 新井に“先ずは、何か注文しろよ”と、タブレットを渡された。お互いの近況報告から始まるのがいつものパターンだが、“今晩は新井の報告がメインなんだろうな”と、考えながら注文の品を選んだ。

 「まじか、海外転勤決まったんだ。以前から海外で挑戦してみたいって言っていたもんなあ」
新井の海外赴任の話を聞いて嬉しさと悔しさが入り混じった気持ちだった。自分もやりたい仕事があるが、今はまだ近づけてもいない。
 「海外で行われるプロジェクトの経験が積めれば、今後のビジネスの視点がグローバルになれる
と確信している」そう言うと、友人はグラスの酒を一気に飲み干した。
 海外か、自分は海外に行って何か仕事に役に立つのだろうか?
 「今井の方は、どうなの?以前から転職も考えているって言ってだけど?」
 「どうかな、今一つ」そう言うと、グラスをテーブルに置いて、焼酎が注がれたグラスの中の氷をマドラーでかき回した。
 「どうした?なんか元気ないけど?」新井が心配そうにのぞき込む。
 「今の仕事というより、やりたい仕事になかなか結びつかなくてさ。それと・・・」
 「それと?何?」
 彼女とのことが頭に引っかかった。
 仕事は、いずれ何とかなる。自信もあるし、確信もしている。今はまだ機が熟すのを待つばかりだ。今の仕事だって、決して悪くはない。ただ、目指すところがある。そう考えると、彼女の都のことは、どうしても優先順位が低く二の次にしか考えられない。
 「いや、別に何でもない。今の仕事では情熱は持てなくて、って言おうとしただけだよ」
 そう新井に応えると、この先の会話を誤魔化す為に、タブレットを手に取って注文を入力し始めた。新井は「そっか」と言うと、そんな自分を察したか、これ以上深くは聞いてこなかった。
 「とりあえず、先ずは新井の新たな門出に乾杯しようぜ」
 今夜は、新井に花を持たせるとするか。何より喜ばしい話だ。

 新井は、早々に海外転勤話の内容に話を切り替えた。彼の仕事への情熱話しを聞いていると、自分だってやりたい仕事に携われるチャンスがこれからまだあると自身に言い聞かせると同時に、俄然やりたい仕事への想いが一段と熱くなった。

 「じゃあな、新井。自分もさ、負けてはいられないから」
 「勝ち負けじゃないから」新井がそう言うと、自分の肩をポンッと叩いて、笑った。
 「でも、今井ならできるよ」
「任せておけ!じゃあな」よし、自分も負けてはいられない。そう思いながら、駅が別の方向の新井と別れて、地下鉄駅の方へ向かった。


 薄暗くなりかけていた部屋で、そんな過去のことを思い出していた。黄昏時、そう言ったけ、こんな時間帯のこと。部屋の中は薄く青白い色のトーンが、今の自分の心の中と同じような感じだなと思っていた。
 自分には、今とは別にやりたい仕事がある、今の仕事は自分が本当にやりたいこととは異なり生涯かけてやる仕事ではない。今は、可能性ある未来を叶える為に全力で自分のやりたい仕事、そこへ飛び込んで行きたいと考えている。そして、将来落ち着いた時に麻美とは結婚するつもりでいた。だから、結婚をしないとは思っていなかった、ただ今じゃない、それだけの理由だった。
 そんな結婚に対しての遣り取りが、今年に入って麻美との間で頻繁にあった。ここ数か月は、少しずつ麻美との間に隙間が生じ、今に至るまでの間で徐々に自分から気持ちが離れて行ってしまったのだろう。それでも、結婚以外のことでは、それなりに上手くやっていたと思う。
 まだ完全に暗く成りきっていない部屋を見渡す。

 新築で入居したこの賃貸マンションは、当時、彼女と二人で一緒に沢山の不動産物件を色々と見て回った物件の一つだった。

 「ロケーションって大事だよね。一緒に住む場所、どこにしようか?」
 「麻美の職場から通いやすい場所が良いんじゃないかな」
 渡辺麻美、彼女と出会った頃は、まだ今の職場での仕事は半人前、とまでは言わないが、まだまだ覚えなければならないこともあり、仕事に対して何かしらの不満を持つということはなかった。ただ漠然と、いつかはもっと上を目指す、今はその土台作りだと自分に言い聞かせて、がむしゃらに働いていたからこそ、今の仕事がある意味楽しい時期でもあった。
 そんな時に麻美と出逢って、彼女の堅実さに惹かれ結婚を前提に一緒に住むことになったのが、この家に住むきっかけだ。
 「ありがとう。でも、二人で住む場所だから、二人で丁度良い中間地点みたいなところで選んだ方が良くない?俊介さんだって、その方が通勤楽だよ」
 「自分のことは考慮しなくていいよ」
 「どうして?」
 「まあ、目標というか、やりたい仕事があるかさ。今の仕事は、いずれって思っているし」
 「いずれか、そっか。じゃあ、とりあえず私の職場に通いやすい場所で良いよね、賃貸だし。いずれは家を購入とか検討するときは、また場所が変わるかもしれないしね」

 そんな感じで選んだこの家は、二人で色々な条件を譲歩し納得して借りた家であった。新築で借りたこの部屋も、数年も経つと二人の生活にすっかり馴染んできていた。今は、いなくなった彼女の面影と痕跡をところどころに残している。

 辺りはすっかりと暗くなり、先ほどまで夕陽が差し込んでいた窓は、都会の高層ビルの光がゆらゆらと煌めき、窓から差す光だけが暗く電灯をつけていない部屋の中を薄明るくしていた。
 リビングのテーブルには、数週間まえから外していた麻美の指輪が置いてあった。この新居に引っ越してきたとき、彼女にプレゼントした指輪だった。当時は、麻美とこのまま結婚するのだろうと思っていたので、結婚指輪替わりじゃないけど、そんな感覚で彼女にプレゼントした指輪だった。“ありがとう!”と言って、指輪を受け取った時の麻美の笑顔が、今でも忘れられない。その指輪が、窓から差すビルの光を反射し、うっすらとした暗闇の部屋の中で輝いていた。

 麻美がこの部屋を出ていく時、彼女を引き留める言葉をかけることが出来なかった。
 その理由は、海外転勤を目前としていた真一と飲んだその晩、遅く帰ってきた彼女から「籍をちゃんと入れて欲しい、このまま未来の見えない関係を続けてはいけない」と問われたが、その問いに対して、彼女が期待する返事をすることが出来なかったからだ。
 その時の彼女の表情をはっきりと覚えている。そして「私たちには未来がないのかな。もう私たち終わりなのかな」うっすらと涙を浮かべながら聞いてきたその一瞬、やりたい仕事と彼女を天秤にかけて、彼女を選べなかった自分がいた。
 それでもしつこく聞いてくる麻美の問いかけに、自分が放った言葉は、「ごめん。今は何も答えられない」だった。

 その瞬間、彼女の表情から何か消え失せていくのを感じ取れた。それが何だったのか、今はわかる。彼女は、自分と歩む未来を諦めたのだ。それからの数週間は、彼女とはすれ違いの生活だった。意図的に彼女が自分を避けていたのだろう。既に、もう自分たちの関係は、あの時点で終わっていた。

 薄暗闇に包まれたリビングの空間が空虚を纏って、心を漆黒の奥底へと導き何か考えることを拒ませている。一体、この先の自分の人生に何があるのか。彼女を失ったことが、こんなにも大きかったとは思いもよらなかった。
 これから彼女と一緒に歩んで行く未来を失い、それが自分の将来像も空虚と化していく。今の自分は、この宇宙空間の時空で漂う何者でもない存在でしかない。
彼女とのことで何が間違っていたのか。自分はあの先にあるだろうという一筋の光を目指していただけなのに、時は待ってもらえず、今はまるで永遠に答えを見つけることが出来ない空間を彷徨い続けている様だ。これからは、時間だけが過ぎ去っていくこの場所に、永遠と置いていかれるのだろうか。

 陽が再び昇り明日が訪れても、彼女はもうここにはいない。
 キャンパスに描かれていた未来が、今は全て真っ白となり、次に何を描けばいいのかも分からない。羅針盤を失った船は、これからの行く先も分からず、ただ彷徨だけなのだから。
< 6 / 13 >

この作品をシェア

pagetop