一途であまい

7.

 自分の心に蟠る感情や、私に対する想いに区切りをつけたあとの滝口さんは、以前のような快活でさっぱりとした様子だ。誰彼構わず女性を近くに置くようなこともないようだし、私に絡んでばかりも来ない。時折、ランチに誘われることはあっても、仕事上の仲間という枠の中に収まる振る舞いだった。

 彼の心についてしまった傷が癒されたわけではないだろうけれど、辛い表情が減っているのはいい傾向だと思う。


「高坂さーん。滝口さんじゃない彼氏って、どんな人ですか?」

 ランチで賑わうカフェのテーブル席。向かい合わせに座った真美ちゃんが、屈託なく訊ねる。サラダバーのついたここのランチは女性に人気があり、美容に気を遣っている真美ちゃんのお気に入りだ。

 彼女の前には、茄子とベーコンのペペロンチーノパスタと、山盛りになった野菜が置かれている。彼女はパスタに手を付けず、ブロッコリーやトマト。アスパラなどを可愛らしい唇を開いてひたすら口に運んでいた。

「彼氏じゃないって、元々滝口さんとは付き合ってないからね」

 しっかりと訂正しておかないと、私と滝口さんが元恋人同士だったという図式が焼き付いてしまう。

「あれ。そうでしたっけ」

 小首をかしげてフォークを持つ姿が可愛らしい。あまりに魅力的で見惚れてしまいそうになりながら、付き合ってないからねとその顔に向かって念を押した。

「で、どんな人なんですか?」

 改めて訊ねられると、すぐに浮かぶのは人懐っこい表情だ。永峯君のあの笑い顔は、反則なくらい心をとろけさせる。

「スイーツみたいな人」

 口にしただけで自然と頬が緩む。

 真美ちゃんがふふっと笑う。

「幸せそうでよかったです」

 お気楽でふわふわっとしていて、時折空気の読めない天然発言をすることがある彼女だけれど。誰かの幸せを素直に祝福できるところがいい。

 永峯君の甘いところを少しだけ真美ちゃんに話し、対照的な刺激を持つペンネアラビアータを口へと運ぶ。

「辛いっ」

 唐辛子の辛さにひーっとなりながらも、美味しさに頬も緩んだ。

 辛さと美味しさに舌鼓を打ち、食後のコーヒーを飲んでいるところでスマホが震えた。テーブルに出したままのスマホ画面を見てぎょっとする。動揺しすぎて椅子がガガッと変な音を立てると、真美ちゃんが不思議そうな顔をして出ないんですか? と訊ねた。

「あ、いや……その」

 躊躇うのには、理由があった。だって、表示されている名前は、私をふった元彼の正なのだから。

 何を今更連絡してくるのか。妊娠中の婚約者と仲良くやっているのだから、ふった元カノなど用済みでしょ。それともまだ言いたいことでもあるの。

 まるで呪われたものを手にするみたいに、恐る恐るスマホを耳に当てた――――。


 その日の夕刻。仕事を終えた私は、一度行ったことのある場所へと重い足を運んでいた。正にふられた、あの喫茶店だ。正は、こんなにも配慮に欠ける人間だったろうか。なにも、イヤな思い出の詰まる場所に呼び出さなくてもいいのに。これは何かの嫌がらせなのか。それとも、結婚が決まり、新しい彼女のお腹も少しずつ大きくなり。幸せ満載の頭では、相手がどういう気持ちになるかなど考えも及ばないのか。

 あの日。正の横に座る彼女は、怯えるようにして身を縮こまらせていた。正に寄り添うように、助けを乞うように、私という敵に対峙するかのごとくの態度だった。

 思いもよらぬ現実を突きつけられ、身を縮こまらせ、怯え泣き出したくなったのは私の方だったというのに。

 店に入ると、以前と同じようにしっとりとしたクラシックが聴こえてきた。

 以前と同じように、正は奥にあるテーブル席に腰かけていた。違ったのは、隣にあの彼女がいないということ。身重だから、今日は無理せず休んでいるのかも。

 小さく息を吐き出し、一体何を言われるのかと憂鬱になりながら近づいていく。テーブルの傍に立つと、気がついた正はどうしてか縋るような目を向けてきた。幸せだと思っていた正だけれど、今私に見せている表情には微塵もそのような色は窺えない。

 何かあったのだろうかと、心配をするほどお人好しではない。わさわさ呼び出しておいてのこの顔つき。嫌な予感がする……。

 正のこの表情は、付き合っていた時にも幾度か見た覚えがあった。あれは確か、正がソファベッドを買った時のこと。便利だから絶対に欲しいと言い張っていたけれど、私から言わせればツーウェイなんてのは上手いこと言っているだけで。本当にマメな人でもなければ、結局のところソファかベッドか。どちらかでしか利用しなくなるのだから、本当に欲しい方を吟味して買うべきだと話した。なのに正は、頑としていうことをきかなかった。部屋だってそれほど広くないというのに、絶対にいいものだからと私の意見に聞く耳など持たず購入した。けれど、案の定。買ったソファベッドは、ベッドにしたままソファに戻ることはなかった。当然だ。布団を敷いてしまえば、いちいちソファに戻すために、片づけなければいけないのだから面倒になるのは目に見えている。そうして持て余してしまったソファベッドをしみじみと眺めた後、正は縋るような視線を私に寄越して言ったのだ。

「このソファベッド、寝心地があまりよくないからやっぱりベッドを買い直すよ。だから、美月。買い取ってくれない?」

 当然呆れしまったし、既に私の部屋にはとても寝心地のいいベッドが存在している。そんな目で見られても、必要ないものを買い取るわけにはいかない。私の部屋だって、豪邸ではないのだから。

 仕方なく、ネットで買い取ってくれる人を見つける手伝いをした。あれこれ手をつくし、なるべく高額で、あまり距離の離れていない人を探した。何日か掛けて、漸く買い取ってくれる人は見つかったが、販売設定の時点で送料を自己負担にしていたため、知り合いから軽トラを借りて自ら運ぶことになった。因みに、送料込みでないと、買い取ってくれる人が現れなかったのだから仕方ない。当然、搬出作業も手伝わされた。部屋から運び出すのも一苦労だったけれど、軽トラに積み込む作業だって大変だった。なのに正は、私を巻き込んだあげく、他人事のように言ったのだ。

「やっぱり初めからベッドにしておけばよかったんだよ」と。

 まるで私が勧めたかのような言い草に、目が点になるとはこのことかと大いに驚いた。付き合って半年ほどで、まだまだ気持ちが高ぶっていた頃だったから、驚くくらいで済んだけれど。今なら完全に喧嘩事案だ。

 他にも、近所の公園に捨てられていた子猫を拾ってきて。可哀そうだから、私に飼えと押し付けてきたこともあった。いやいや、拾ったのは正でしょ。とこれもまた驚いた。命あるものに一度でも情けをかけたなら、責任を全うしなくてはならないのに、正は全くの他人事で、私に飼うよう勧めてきた。しかしながら、私の住むマンションはペット禁止だし、正はそもそも自分で飼う気などはなからない。子猫を連れて私のところへやって来た時のセリフは「美月が可愛いって言うかと思って」という、あっけらかんとしたものだった。確かに動物は大好きだ。あのふわふわっとした毛を、もふもふとしたら幸せな気持ちになる。けれど、飼うとなると話は別だ。そこには、命という確かな重みがあるのだから。

「また捨てて来なくちゃならないのか……。お前、可哀相な奴だな」

 子猫を撫でながら、恨めしそうに私を見る正に呆れ果ててしまった。まるで私が悪いみたいだ。結局、里親探しをすることにした。飼い主が見つかるまでの間は、正に責任を持って飼うことを言いつけた。私はあちこちに里親募集の張り紙を出し、SNSでも呼びかけ拡散した。その甲斐あって、何とか飼い主になってくれる心優しい家族を見つけることができた。当然、予防接種やなんだかんだは、私が獣医のところへ連れて行き済ませていた。

 付き合っている時には気づけなかったけれど、なんて考えなしの男か。ふられて悲しかったけれど、今思うと別れたことは正解だった。あのまま結婚していたら、次々と無理難題を持ち込まれていたかもしれない。想像しただけで怖ろしい。

 そして、今まさに。あの数々の驚くような所業の際に見せたその目をしている。嫌な予感は、益々増幅だ。このまま回れ右をして立ち去りたい衝動にかられた瞬間。正は、おずおずとした調子で少しだけ右手を上げると「やぁ」なんて力なく声をかけてきた。

 その「やぁ」がスイッチの如く、私は正の前に座ってしまった。まるで付き合ってきた三年の間に培われた阿吽の呼吸。パブロフの犬のようではないか。そして私は、後にここへ来たことを激しく後悔する。

 話しって何? そう訊ねようとしたところで、ご注文はと店員に遮られる。

「あ、すぐ出るので」

 私は右手を軽く上げて断る。

「え。ゆっくりしていけばいいのに」

 相も変わらず、暢気な対応だ。さっきまでの、縋るような視線はどこへやった。嫌な予感しかしないこの状況で、ゆっくりなどしたくない。

「で、話って何?」

 お冷やのグラスを置いて店員さんが下がったところで切り出すと、正は思い出したように縋る目を向けてくる。その目を見ていられなくて、というより。本題を聞くのが怖くて、私はどうでもいいことを訊ねてしまう。

「彼女はどう? 元気にしてる? お腹の子は、順調?」

 正と別れたあと、永峯君と出会っていたからこそ訊ける内容だ。これが未だに一人、正に未練タラタラでウダウダとしていたなら、絶対に出てこなかった質問だろう。

 なんなら呼び出されたことに、浮かれた足取りでやって来ていたかもしれない。

「えっと。その……。美月は? 美月は、あれからどうしてた?」

 私の質問にあたふたとして答えず、逆に訊ねてくる。それにしても、どうしてたって。それをよく訊く気になれるよ。まさか、彼女と喧嘩でもした? マリッジブルーとかいうやつ? 結婚の準備がうまく進まずに、慰めてもらおうとでもしている?

 正の態度を考えれば、なくはない話だ。別れた元彼に、今カノの愚痴を平気で言うことなど、なんとも思っていないだろう。いくら私が穏やかに身を引いたとは言え、流石にそんな相談にのれるほど心は広くない。

「私のことは、どうでもいいよ。話がないなら、帰る」

 席を立とうとすると、あの目で私を見ながら「美月、待って」と情けなく引き留められた。その声がやけに大きく店内に響いたものだから焦って周囲を見回した。当然のように、何人かのお客がこちらをチラチラと窺い見ている。

「声が大きい」

 釘を刺すように正に言って、ストンともう一度席に着く。するとまた、あの縋る目を向けてくる。

 嫌だ、嫌だ。折角永峯君と出会って、幸せな毎日を送っているというのに。このしょげ返ったような負の感情を思いっきり背負う正の話など聞きたくない。こちらまで引きずり込まれてしまいそうじゃない。

 やはり、話など聞かずに帰ろう。そもそも、ふった相手を呼び出す時点でおかしいじゃない。不安ばかりを覚えて石橋を叩くわりに、情けが先に立ち思慮の狭いダメな部分が露呈してしまった。あんなふられ方をしたのだから、二度と会う必要もないし。会ってはいけない相手だ。

「やっぱり帰る」

 なかなか本題を切り出さず。唯々縋る目で助けを乞うように見てくる正を振り切るように席を立つ。

「えっ、ちょっ。美月っ」
「私ふられた人。あなたふった人」

 正を指さし、それ以上何も言わせないと出口を目指す。正は焦っていたけれど、鞄やら伝票やらにまごまごとしている。そんな正を尻目にさっさと店を出た。

「もう。無駄な時間。早く永峯君のところに行こうっと」

< 22 / 27 >

この作品をシェア

pagetop