一途であまい

2.

 じゃあ、また。と彼がカフェを出た後、美味しいと言っていたコーヒーをゆっくりと味わってから帰宅した。彼が歩いて行った先を窓辺から眺めながら、また。なんてないのだろうとぼんやり思う。それでも、借りたままのハンカチを丁寧に手洗いしながら、返す機会はあるだろうかとも考えた。名前も連絡先も知らない大学生の彼が、またあのカフェにやってくる確率は宝くじに高額当選するよりも低い気がする。干したハンカチからは、もうあの柔軟剤の香りはなく。それがとても寂しくて、心臓の隅のところがキュッと小さく傷んだ。

 翌日。会社のエントランスで澤木先輩に会った。

「おはよう、美月。昨日は、ごめんね」

 謝る先輩に首を振る。

「急なことでしたし。ダブルエースの一人を、独り占めにしようというのが間違いでした」
「何その、ダブルエースって」

 クスクスと笑いながら、降りてきたエレベーターに乗り込む先輩に続く。

「ダブルと言えば、宮沢先輩と澤木先輩です。二人がいるおかげで、この二課は安泰ですから」

 わざとらしく拝む仕草をするとやめてよ、と可笑しそうに声を上げる。

 二つ上の澤木先輩は、新入社員の時から既に仕事できるオーラが凄かったらしく。私が入社した時には、同期の宮沢先輩と売り上げを競い合うあっていたらしい。何かあれば、宮沢か澤木に訊けというのが、部長たちの口癖だ。それにくわえ、二人とも嫌味な感じが少しもない。もちろん仕事には厳しいけれど、足の引っ張り合いだとか。誰かを貶めようだとか。そういった考えのない二人だから、社内でも憧れている人が多い。そんな人の下について働くことのできる私は幸せ者だ。

 乗っていたエレベータがフロアのある階に着いたところで、昨日落ち込んでいたのはどんなことだったのか訊ねられた。私は先輩の袖を引き、廊下の隅へと引き寄せる。そうしてから、こそこそと身に起きた出来事を口にした。

「実は、彼にもう一人彼女がいまして、結婚目前だと思っていたのにふられてしまいました」

 淡々とした口調で伝えると、先輩の体は跳ね驚愕してしまった。彼とのことは幾度となく話し、相談にも乗ってもらっていた。惚気話だって聞いてもらっていたし、そろそろ結婚かもと口にだってしていた。だからこんな話を聞かされるなんて、想像もしていなかっただろう。

「うそでしょ……」

 かすれた声で、消え入りそうにつぶやく。

「相手は年下の、とっても可愛らしい女性でした。お腹に子供までいるみたいです」

 衝撃的な事実に自らの額に手をやった先輩は、眩暈を起こし倒れてしまいそうだ。

「それって、美月とその子が重なっていたってこと――――」

 言いかけた先輩の口を慌ててふさぐ。

「みなまで言わないでください……。そんなことにも気がつかず、ノー天気に結婚のことを考えていた私が甘かったんです」

 切なさに語尾が震える。

「ご、ごめん。えっと、うん。わかった。絶対にスイーツご馳走するから。ね」

 優しく声をかけられることが嬉しい反面。プライベートな時間ではない今は、涙を堪えるしかない辛さに顔が歪む。ちょっとでも気を緩めたら、涙腺が崩壊しそうで必死にこらえた。

「なんだ、なんだ。女同士で」

 隅で話し込んでいるところに宮沢先輩が出社してきた。

「女同士の大事なお話ですから、殿方はどうぞお引き取りを」

 澤木先輩がわざと恭しく言い、宮沢先輩を私に近づけないよう気を遣ってくれた。勘のいい宮沢先輩は、「失礼しました~」と少しの笑いを混ぜてスゴスゴというようにフロアへ退散していく。

 大人しくいなくなった宮沢先輩の後姿が可笑しくて、少し心が落ち着いてきた。

「それにしても、私の美月になんて酷いことを」

 怒りに震えるように先輩は拳をぎゅっと握る。心強い味方がいる。それだけで救われる。

 その日の営業はデスクに噛り付いたあと、社から電車を乗り継ぎ、とある商店街のはずれにある昔ながらの文房具店へ赴いた。新入荷の案内だ。盛大にふられた後に、地味なデスクワークだけでなくてよかった。普段能天気に見える私でも、流石にじっと座って四角い画面ばかり見ていたら鬱々としてしまう。

 やってきたのは「おきつ文房具店」という昔ながらの個人経営の店で、私が最初に任された営業先だ。店主はまだ若々しいけれど、とうに六十歳を過ぎている。それもあって、数年前から息子さんが一緒に店を切り盛りしていた。店内は、個人商店にしては広く。沢山の商品を扱っている。近くに小学校や高校があるため、この文房具店は重宝されているのだ。学校指定の上靴や名札などを扱っているのも大きな要因だろう。

「こんにちは~」

 自動ドアを潜り店内に声をかけると、にこやかな表情で店主の興津一馬(おきつかずま)さんが顔をのぞかせた。

「高坂さん、いらっしゃい」
「こんにちは、興津さん。お元気でしたか?」
「元気元気。さっきも商店街まで散歩に行っていたくらいだよ」

 興津さんがレジ傍にある丸椅子を勧めてくれる。

(はじめ)さんは?」
「ああ。息子はついさっき、商店街の金物屋に用があって出かたよ。あそこの息子と仲がいいから、油でも売っとるのかもしれん」

 カカッっと興津さんが笑う。

 ここから少し離れた場所には、ときわ商店街というとても栄えた通りがある。今では、珍しいくらい人通りが多い商店街だ。私がこの町で担当しているのはこのおきつ文房具店だけで、商店街へ行くことはあまりないのだけれど。何度か足を運んだ時には、働いている人たちがみんな生き生きとしたいい表情をしていた。

「今日はどんなおススメを持ってきてくれたんだい? 高坂さんのところの文房具は、子供たちに大人気だからね」

 老眼鏡にかけなおした興津さんへ新しい商品のパンフレットと、出来立てほやほやの試作品である子供向けの筆箱を渡した。

「見た目はもちろん、男の子は恰好よく。女の子はキュートに仕上げてありまして。ここの蓋についているボタンをぽちっと押していただきますと、隠されていた定規が出てくるんですよ。それで、ここを押すと、ロケットみたいにパッと筆箱から鉛筆が立ち上がるので、取り出しやすいんです」

 説明を聞き、遊び心満載の筆箱を宝箱みたいに触って確かめている。

「いいねぇ。出てくる定規も、お洒落なのが入っているじゃないか。これはまた子供たちに人気が出そうだよ」
「従来のものより衝撃にも強くしてあります」
「ほうほう。子供たちはすぐに物を落とすし、乱暴に扱うから壊れるのもはやい。丈夫なのもいいね」

 新しい商品を気に入ってくれたようでほっとする。

「仕入れる個数は、一から連絡させるから頼むよ。それと在庫の減ってる物もあるから、補充して欲しいんだが」
「はい。承知しました」

 タブレットから、不足分の商品を倉庫へ依頼する。興津さんと少しだけ世間話をして、ここの営業は終了だ。

 おきつ文房具店から外にて腕時計を確認すると、あと一時間ほどでランチタイムだった。少し早いけれど、腹ごしらえをしてから次の営業先に向かおう。興津さんから商店街の話も聞いたし、久しぶりに足を運んでみようかな。

 営業鞄を持ち直しサクサクと歩いて商店街への道を行くと、近づくにつれて人通りが増し賑わってきた。高い位置にあるときわ商店街のアーチはもうずいぶんと古くなっているけれど、並ぶ店舗はどれも明るく生き生きとしている。明治からある老舗のおでん屋。クロワッサンが人気と聞くいい香りのするパン屋。コロッケやメンチも売っている精肉店。

 あ、さっき興津さんが言っていた金物屋だ。アーチを潜って間もなく見えてきた金物商店の中を、ちょっと首をのばして窺うと一さんのうしろ姿が見えた。店主らしき人物と、何やら楽しそうに会話しているようなので声はかけずにおく。

「興津さん、一さんは楽しそうに油を売っておりましたよ」

 笑みを浮かべて前を通り過ぎると、お婆さんが切り盛りしているお茶屋さんがあり。それを過ぎると和菓子屋もある。ケーキもそうだけれど、私は和菓子も大好きだ。しかし、この和菓子屋には厳つい店主がガラスケースの奥に仁王立ちしていた。入ってみようかと思う気持ちが瞬時に萎える。併設されている小さな甘味処もあるから一度は行ってみたいが、あの店主に注文するとなると、しり込みして言葉が出てこないかもしれない。

 残念な気持ちで外から店内を窺い見ていると、店主がこちらに気がつき瞬殺するかのごとく視線を寄越した。恐怖にくるりと踵を返す。

「怖いからっ」

 店に背を向け呟くと、目の前に人影が現れた。スニーカーにジーンズ。下からパーンして上を見ると、スポーツメーカーのロゴが胸元についたトレーナー。少し茶色の髪の毛に人懐っこいアイドル顔があった。驚くことに、昨夜カフェでつい失恋話を吐露してしまったあの青年が立っていたのだ。まさかの再会に目が見開いてしまう。

 ハンカチを借りたままになっていたから気になってはいたけれど。まさか、ときわ商店街で偶然にも会うことができるとは思ってもみなかった。

「こんにちは」

 大学生の彼は、偶然の再会に驚く表情一つ見せず、屈託のないにこやかな笑みを浮かべ挨拶をする。条件反射的に私も彼に挨拶を返した。

 そうして昨夜のことを一瞬で思い返し、よく知らない年下男性相手に別れ話を涙ながらに告白した自分に羞恥を覚え顔が引き攣る。しかし、失恋話など何も覚えていない。もしくは、大した話ではなかったとばかりに、彼の表情には微塵も不自然さはなく。寧ろ、思いがけない場所で知り合いに会えた嬉しさを隠すことなく頬を緩めている。あまりに素直なその反応に、引き攣った頬の筋肉が自然と緩む。

 私と和菓子屋を交互に見た彼は、入らないんですか? と訊ねる。入りたいのは山々なのだが、入ったら最後、命の保証はないとばかりの店主に躊躇しているのだとは言葉にできず。通りすがりだろう彼に対し、まどろっこしいヘルプサインが顔に出た。

「それが。甘いものは好きなんだけど、その……ちょっと……」

 ショウケースの前の店主をちらりと見ると、大学生の彼は、ああ。なんて訳知り顔をした。

「大丈夫ですよ。源太さん、ああ見えてとってもいい人ですから」

 源太さん? それって、あの厳つい店主のこと?

「それに、ここの和菓子はめちゃくちゃ美味しいので、絶対に食べた方がいいです。昨日のリベンジもかねて」

 どうやら、ショートケーキに向かってダメ出ししていたことを言っているようだ。ということは、失恋話も覚えているってことか。そりゃあそうよね。泣きながら話されたのに、忘れるわけなどない。まいったなぁと、今度は苦笑に頬が歪む。

 私の胸中など知りもしない彼は、スッと私に向かって手を差し出した。なんだろうと考える間もなく、彼が私の手を取り握った。

「じゃあ。いきましょう」

 躊躇いもなく手を繋ぎ、彼は私を連れて店内へと入っていく。その仕種があまりに自然だったからか。彼が持つ、人懐っこさのせいか。いやだとか。恥ずかしいとか。そいったことを一ミリも感じることはなかった。

 握られた手を解くことなく、ショーケースの前まで進んで行く。彼の行動があたかも普通のことのような振舞いだから、この状況に違和感さえ覚えないほどだった。
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