幸い(さきはひ)

第六章 ④

 恋人という関係になってからというもの、桐秋は研究以外の時間を千鶴と()ることに費やすようになった。

 三食の食事はもちろんのこと、桐秋の休憩に千鶴も共に過ごすようになったのだ。

 今までも一緒に休息をとったことはあるが、ほとんどは千鶴がお茶を出したりするだけで、横に並んでゆっくり過ごすということは少なかった。

 ただ傍にいて庭を見つめるだけの刻。

 それでも関係性の変わった今、千鶴はこの何でもない時間が貴重なものに思えて、(たま)らなく愛おしかった。

 千鶴は奥向きのことで休憩を取れない時もある。そんな時は千鶴が仕事をする近くで、桐秋は邪魔にならないよう、何をするでもなく千鶴を見つめていた。

 食事の支度をしている時などは、えんどう豆の筋取りや唐黍(とうきび)の皮むきなど野菜の下ごしらえを手伝ってくれることもある。

 桐秋はなるべく、千鶴の気配がする所で過ごそうとしているようだった。

 恋人になってから増えたものは他にもある。

 桐秋が千鶴にふれること。

 桐秋は初めの冷たい態度からは考えられないほど、積極的に恋人同士のふれあいを求めてきた。

 もちろん、直接肌が接触しないように布越しであり、千鶴が嫌がることはしない。

 ただそっと、千鶴の体を指で優しくなでるだけ。

 桐秋は千鶴が、驚かないよう、怖がらないよう、ゆっくりとふれて、少しずつ、少しずつ、慣らしていく。

 最初は手、慣れたら(うで)(かた)(あたま)

 どんどんと、千鶴のふれていい場所を増やしていく。

 桐秋はふれる前、必ず千鶴に許可を取る。

 が、千鶴それを拒んだことはない。

 桐秋が与えてくれる手袋越しの繊細な指の感覚は千鶴の鼓動を早くするが、それ以上に(よろこ)びを与えてくれる心地のよいものだったから。

 加えて桐秋はふれた箇所に情熱的な言葉を落としていく。

 腕が陶器(とうき)のように白く美しいとか、肩の線がたおやかだとか。

 千鶴はその蠱惑的(こわくてき)な言葉に、身体を包み込むような低い声音(こわね)に、いつも顔を紅くした。

 そんなふれあいの日々の中で、桐秋のなぞる指が足に移った時、不思議な感覚が千鶴を襲った。

 正座で座っている状態で足袋(たび)の上から足の裏をなでられた際、背中に一瞬びりっと何かが走った気がしたのだ。

 足のしびれでもこそばゆさでもない。

 わけがわからず千鶴が驚いた表情を見せると、桐秋はすぐに足にふれるのをやめてくれた。

 その後は、千鶴が心地よいと感じる頭を撫で、すまなかったと謝ってくれた。

 千鶴には瞬間走ったそれが何かはわからなかったが、桐秋に頭を撫でられることが気持ちよく、すぐに忘れてしまった。

 刻を()るごとに、ふれあいは深まっていく。

 一か月も経つ頃には、千鶴は、桐秋に膝を貸していた。

 きっかけはただの戯れ。

 縁側で千鶴が裁縫(さいほう)をしていると、部屋に籠もっていた桐秋が縁側に出てきた。

 その姿が疲れているように見えたので、千鶴が縫物(ぬいもの)をする手を止め、

「よかったら、休まれますか」

 と自身の(もも)を叩いた。

 千鶴としては冗談のつもりだった。

 少しずつ恋人同士であることに慣れてきたおかげか、そんな戯言(たわごと)が言えるようになっていた。

 ほんとうに疲れているのであれば、布団でも敷こうかと返事を待っていると、桐秋は千鶴に近づき、誘われるまま、千鶴の腿に頭を置いた。

 驚いたのは提案した側の千鶴。

 まさか冗談を本気にされるとは。

 それでも足に感じる重み、(ぬく)みに千鶴はこの上なく心が満ちた。

 千鶴は膝の上にある桐秋の顔に見とれる。

 黒い双眸(そうぼう)が閉じられてなお、横顔は人形のように精緻(せいち)秀麗(しゅうれい)だ。

 千鶴は桐秋の顔に伸びた髪かかっていることに気づき、裁縫のため外した手袋をはめ直し、そーっと、数本の髪を耳にかける。

 桐秋を起こさなかったかと顔を覗き込むが、桐秋は目を閉じたままだった。

 そうすると千鶴にむくむくと湧き上がる、自らもふれたいという思い。

 いつも桐秋からふれられることはあっても、千鶴からふれることはない。
 
 すべてが初めての千鶴はどうしたらよいのかわからず、されるがままになっている。

 決してそれに不満があるわけではない。

 けれどもこんなに隙だらけの姿を見ていると、自らもふれたいという気持ちがせり上がってきたのだ。 
 
 千鶴は桐秋の濡羽色(ぬればいろ)(つや)やかな髪を、手袋で数回そろりとなでる。

 ふれるか、ふれないか微妙な間合いだ。

 すると、膝の上から思いもしない声がした。

「君からふれられるのもうれしいな」

 千鶴が驚き、桐秋の顔を覗くと、桐秋はにやりと口角を上げ、横目でこちらを見ていた。

 千鶴は慌てて手をひっこめる。

 どうやら彼は眠っていたわけではなかったようだ。

 さらにあの微妙な感触さえ感じとっていたらしい。

 桐秋は引かれようとした千鶴の手を掴むと、自分の頭に乗せ、再度なでるよう、千鶴の手を操り訴える。

 断れない千鶴はその動作を引き継ぎ、桐秋の髪をなで続ける。

 優しく頭にふれることを続けていると、桐秋は気持ちよさそうに、再び瞼を閉じる。

 桐秋の無防備な姿に、千鶴は、愛しいという気持ちがあふれてはじける。

 そしてその気持ちのまま、いつも恋人らしい言葉やふれあいをくれる桐秋に、自身も何か告げたくなった。

 これならばと、千鶴は秘めていた想いを口にする。

 桐秋は起きているか寝ているかわからない。

 それでいい。

 夢うつつで聞いてもらうくらいでないと恥ずかしい。

「桐秋様とこの離れの桜の下でお会いした時、私も幼い頃の桐秋様と同じように、桐秋様を桜の精だと思ったのです」

  千鶴は桐秋の髪をすく手を止めることなく、自然とこぼれる笑みを浮かべ告げる。

「桜の花びらが満天(まんてん)に舞う中、薄墨色(うすずみいろ)の着流し姿で立たれている貴方様(あなたさま)はあまりにも美しくて、この世のものではないようでした。

 また、貴方様が、桜の花を見上げる表情はとても悲しそうで、その存在を(はかな)く感じました。

 ですから、貴方様が去ろうとした時、袂を掴んだのです。

 消えてしまわないようにと。ここにいてくれるようにと。

 貴方様がこの世界に存在する人間でよかった。

 おかげで私はこうして、貴方様にふれることができる」

 千鶴は言い終わった時、少し夢見がちな表情を浮かべていた。

 しかしすぐに、本心から次々とこぼれでた言葉が恥ずかしくなり、頬をぽっとさせる。

 ――それでも伝えたかった。

 千鶴の(いつわ)りない素直な気持ちだったから。

「お互いに桜の精にあったのだな」

 やはり桐秋は起きていたのだろう、閉じた瞳のまま微笑んだ。

「そうですね」

 桐秋の言葉に千鶴も穏やかに笑みを浮かべる。

 千鶴がそのまま髪を撫でていると、桐秋の胸の動きが一定になる。

 今度こそほんとうに寝入ったようだ。

 そんな桐秋の美しくも、どこかあどけない寝姿を千鶴が慕わしく見つめていると、桐秋の(まつげ)が抜けて、白い頬に付いているのに気づく。

「見つけた」
 
 千鶴はそれを手に取り、目をつむった後、そっと息を吹きかける。

 どうかこの刻が(なが)く続くように、と祈りを乗せて。うろ覚えの遠い昔のおまじない。

 睫はふわっと浮き上がり、庭の遠くの方へと飛ばされていく。

 千鶴はそれに笑みを深くするが、睫が消えた先にある木々達はそんな願いとは裏腹に、次の季節を告げるよう、ほんのりと自身の色を変え始めていた。 
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