幸い(さきはひ)

第七章 ③

 桐秋は別荘の庭に(もう)けられた温室で、紅茶を(たしな)みつつ、本を読んでいた。

 別荘にあった英国の詩集。
 
 手慰(てながさ)みにと取った本ではあったが、内容はまったく頭に入ってこない。

 頭を占めるのは可愛い恋人のことばかり。

 恋人同士となり、千鶴にふれるようになってから、千鶴はときたま、女の顔を覗かせるようになった。

 普段の千鶴は、光にも染められていない真白な新芽のように、何も知らぬ無垢な顔をしている。

 今日も別荘に着き、ステンドグラスの光の前で祈る彼女の姿は、(けが)れを知らぬ聖女のようにさえ見え、あまりの清廉さに声を掛けるのをためらうほどだった。

 ところがそんな清浄無垢(せいじょうむく)な姿から一転、桐秋とふれあう時、千鶴は一気に初心(うぶ)な少女の(から)を破って、今にも開花しそうな大人の女の表情を垣間(かぃ)見せる。

 桐秋にもっとふれてほしいと訴える顔は、花が開く寸前の、ほのかに色づき、柔らかくなった蕾のような、匂い立つ色香を(したた)らせている。

 毎日のように明日には花が咲くだろうという期待を桐秋に持たせ、境界線ぎりぎりに存在する危うい美しさで、桐秋の胸中を散り散りに乱れさせる。

 いつ咲くかも分からないため、少しも目を離すわけにはいかない。

 最も美しい瞬間を見逃すことはできないのだ。

 ひと思いに花を咲かせ大人になって欲しいような、この曖昧(あいまい)な美しさをいつまでも堪能していたいような。

 桐秋の心は見事に翻弄されている。

 それでもやはり、女として開花するなら、自分の()の中でという身勝手な欲求もある。

 それが今日、千鶴に着物を贈るという行為につながった。

 前にも着物は贈ったが、あれは千鶴を離れに縛りつけている免罪符(めんざいふ)のようなもの。

 しかし今日のそれは、桐秋が恋い慕う女に着てもらいたいがために選んだものだ。

 いわば自分の手で千鶴を美しく咲かせるための魔法の道具の一つ。

 そんなことを桐秋が考えていると、温室の戸が開いた音がした。

 続けて地面を草履(ぞうり)()る音が近づいてくる。

 期待に胸を膨らませる桐秋の前に現れたのは、麗しき姿の愛おしい乙女。

 乙女が纏うのは大正緑(たいしょうみどり)を地色として、裾に向かって流水に乗った花筏(はないかだ)と紅葉が描かれた手描き友禅(ゆうぜん)の振袖《ふりそで》。

 千鶴の顔は可愛らしく、はっきりとした目鼻立ちをしている。

 ゆえに桐秋は千鶴には明瞭(めいりょう)な濃い色が似合うと思い、緑を主体とした着物を選んだ。

 柄は秋の紅葉に千鶴の好きな桜も筏に乗せ、水に漂わせた。

 帯は着物に合った上品に輝く白地に、金の細かい刺繍(ししゅう)をいれた丸帯。

 艶やかな振袖姿の千鶴は、天窓から差し込む光のヴェールすらまとい、桐秋に向かって満ちたように微笑む。

 眩しいばかりに(きら)めき、はにかむ乙女の姿に桐秋の心は一瞬で天上へと導かれる。

 しばらくその姿に見とれていた桐秋だったが、そよぐ風になびく繊細な絹糸に目が移る。

 今の千鶴の髪型は顔の周りに沿わせた外巻きはいつもどおりに、後ろに大きく結んでいる三つ編みを解いている。

 ふわりと(ゆる)やかに波打つ髪を背に沿わせ、流している姿は千鶴によく似合っていた。

 女性というのは家族以外の者の前では、髪を束ねているものであり、おろし髪などまず見せない。

 けれど桐秋はその姿を見たくて、あえてこの髪形にしてくれるよう頼んだのだ。

 桐秋は無防備な髪型の千鶴に、自分の願いを叶えてくれたという嬉しさと、この姿を見られるのは自分だけなのだという男のほの暗い優越感(ゆうえつかん)を抱く。

 桐秋の嬉しそうな視線に、千鶴は面映(おもはゆ)そうに手根をすり合わせている。

 そんな千鶴に桐秋は

「その場で回ってくれ」

 と頼む。

 千鶴は少し戸惑い、眼をくるりと回しながらも、桐秋の優しい声色に操られるようにして、袖を持ち恥ずかしそうにくるりと回る。

 長い袖と腰まである髪がふわりとなびき、隠れていた後ろの小結(こむすび)の帯や続き地の友禅の柄が見え、なおもって桐秋の目を楽しませてくれる。

 時間にしたら一瞬。

 しかし桐秋には残身(ざんしん)が残るように動きがゆっくりと見えた。

 最後に千鶴の照れた笑みが正面に戻ってくる。

 桐秋は動作の一つ一つにシャッターを切るように、脳裏にその姿を焼き付ける。

 時間を掛け、一通り千鶴の可憐な振袖姿を堪能し、満足した桐秋は対面の一つ空いた席に千鶴を手招きする。

 千鶴は長い袖に気を付けながら椅子に座り、桃のように頬を熟れさせながら、感無量(かんむりょう)の面持ちで礼を言う。

「こんな素敵なお着物を着せていただいて、ありがとうございます」

 千鶴の感謝の言葉に桐秋は、口角を上げながら言葉を返す。

「私こそ君にその着物を着てもらいうれしい。とても似合っている」

 桐秋が何のてらいもなく、率直に己を褒める言葉に、千鶴はさらに頬を赤くする。

 桐秋はそんな千鶴の初心な反応に心の底から愛おしさが込み上げる。

 そして仕上げだ、と言って桐秋はテーブルに乗せていた顔の大きさほどの平たいベルベットの箱を開ける。

 現れたのは上品な乳白色(にゅうはくしょく)の光沢を放つ真珠のカチューシャ。

 桐秋は手袋をした手でそれを取ると、座っている千鶴の向かいに立ち、少し前に(かが)むよう指示する。

 いわれたとおり千鶴が腰を折ると、後れ毛が一筋、前に垂れた。桐秋はそれをそっと千鶴の耳にかけ直す。

 桐秋の手が少し()れただけで、千鶴の耳の先端は熱をもつ。

 桐秋はそれに気づかぬまま、真剣な目つきで真珠のカチューシャの両端を耳の後ろに差し込んでゆく。

 千鶴の髪に絡まないように、ゆっくりと。

 真珠のカチューシャを乗せられた千鶴は、おそらく高価なものであろうことを察して、桐秋に一言言おうと顔を上げる。

 が、そこにあった桐秋の満たされた表情を見て、何も言えなくなった。

 千鶴はただただ、桐秋の優しい顔に胸がいっぱいになり、泣きそうな顔で微笑んだ。

 その後、二人お茶をし、千鶴は桐秋に温室内を案内してもらう。千鶴は異国から来たという珍しい植物の数々に()せられる。

 この温室は薬学の研究にも使われており、昔は研究対象の本草(ほんぞ)を海外から取り寄せて育てていたそうだ。

 しかし途中からは観賞用の花も植えはじめ、今は研究用と鑑賞用の植物が、半分ずつ植えられているという。

 千鶴は初めて観る花や木に、爛爛(らんらん)として目を向ける。

 そんな千鶴の様子に、桐秋はここに連れてきてよかったと思う。

 普段どこにも行けない自分が唯一、彼女を連れ出すことのできる場所がこの別荘だった。

 色々と珍しいものが多くあるこの場所は、きっと千鶴を楽しませてくれるだろうと思っていたが、正解だったようだ。

 千鶴の目が輝く様子を見て、桐秋も表情を柔らかくする。

 それから、あちこちの植物を見て回る千鶴に付き合うまま温室で過ごしていると、あっという間に黄昏時(たそがれどき)となっていた。

 桐秋と千鶴は、一階にある晩餐室(ばんさんしつ)で共に夕食を取る。

 献立はあらかじめ、千鶴が滋養(じよう)によい食材や調理に気をつけてほしい食品、調理法などを(ふみ)で送っておいた。

 それらを基に、通いの料理人が作ってくれるようになっている。

 それでも、そこはやはり料理を生業(なりわい)とするだけあって、書いてあったことを守りつつ、とても千鶴では真似できないような西洋料理が出てくる。

 一品一品の盛り付けが芸術品のように美しく、ナイフとフォークが用意された料理。

 桐秋はそれらを綺麗に使いこなし、上品に食べているが、千鶴はというと、立体に組まれている繊細な前菜(ぜんさい)を前にどう手をつけようか迷っている。
 
 桐秋の所作を観察し、見様見真似(みようみまね)で食べてみるが、不格好で時間がかかってしまう。

 そんな千鶴の様子を見た桐秋は、両手の銀食器(ぎんしょっき)を皿に置き、給仕をしてくれている管理人の主人に箸を二膳頼んだ。

 桐秋は持ってこられた箸のうち、一つを千鶴に渡してくれる。

 そして自身もそのまま箸で料理を食べ始める。

 きっと洋式の食卓になれない千鶴を思いやり、箸を用意してくれたのだ。

 そのうえ千鶴のみが箸を使うことで気まずくならないよう自らもそうしてくれている。

 千鶴は桐秋の細やかな配慮に、胸が柔らかく締め付けられる。

ほんとうに些細(ささい)で繊細なことに気を掛けてくれる人だと、あらためて桐秋の心根(こころね)の優しさに心が惹きつけられる。

 初めて一緒に食べた食事のように、いや今はそれ以上の想いも相まって、ますますおいしく感じるようになった料理に千鶴は笑顔で舌鼓(したつづみ)を打った。


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