一途な御曹司の甘い溺愛~クズ男製造機なのでお付き合いできません!~
 そのとき、紗英の肩がぽんと叩かれる。
 振り返ると、悠司が険しい顔をして立っていた。
「どうやら、施設が売却されるという手紙が、伊豆の契約者に送られたようだな。俺は本部長からも誰からも、なにも聞いていない。寝耳に水だ」
「売却なんて、ありえませんよね? 入居日は来週です」
「今、事実確認をしている最中だ。土地の所有者に電話をかけているが、つながらない。だが土地の賃貸契約を突然破棄できるはずはない」
「そうですよね」
 頷いた悠司は、フロアにいる社員たちにも伝えた。
「伊豆の施設が売却されるという話は、事実確認中だ。お客様には手紙を保存の上、こちらからの連絡を待ってくださいと伝えてくれ」
 みんなは受話器を手にして、「わかりました」と返事をした。木村だけが素知らぬ顔をしてパソコンを眺めている。
 そのとき、足早に本部長がやってきた。彼の背後には不安そうな顔をした老夫婦がフロアの様子をうかがっている。
「桐島課長。伊豆の施設を契約したお客様だ。電話がつながらないので、直接お越しになったらしい」
「自分が対応します」
「わたしも同席しよう。いろいろと確かめたいことがある」
 悠司は紗英に向き直ると、しっかりとした口調で言った。
「海東さんは電話対応を続けてくれ。しんどいだろうが、頼んだぞ」
「かしこまりました、桐島課長」
 礼をした紗英は自分のデスクに戻った。
 じきに電話が鳴り出す。
 対応していると、悠司と本部長がフロアを出て、訪問してきた契約者を会議室に案内しているところが見えた。
 フロアには「事実確認中です」「折り返し、こちらからご連絡いたします」という社員たちの声が響いた。木村はデスクで鳴り響く電話を無視していた。
 
 やがて昼過ぎになり、電話のコール音が減ってきた。
 誰も昼食を取っておらず、社員たちには疲労の色が見られた。木村ひとりがデスクで悠々とサンドイッチを頬張っているのを、ほかの社員が恨めしそうに見ていた。
 紗英は顧客に懸命に説明したが、「とにかく今すぐに解約したい」と言い張る人もいて、説得するのに疲れ果てた。
 それに、今の時点では事実無根だと、証明することができないのである。紗英だって、いったいなにが起きているのか把握していないのだ。中には「会社が倒産するの?」と勘繰る人もいて、顧客のあらゆる不安を拭うため説得することになった。
 ぐったりした紗英が受話器を置いたとき、フロアに本部長と悠司が戻ってきた。
 悠司は手に封筒を持っている。
 詳しい事情を知るため、社員たちは悠司と本部長の周りに集まった。もちろん紗英も加わる。
 悠司は朗々とした声を出す。
「みんな、朝からご苦労だった。もうすでに大体のことはわかっていると思うが、伊豆の施設が売却されると書かれた手紙が、契約したお客様に郵送されたのが今回の騒ぎの発端のようだ。そこから会社が倒産するのではないかとか、土地が競売にかけられたなどの憶測が飛び回ってしまったらしい」
 誰かが深い息を吐いた気配が伝わる。
 紗英も顧客から、あらゆる憶測を聞いていた。
 伊豆は立地がよく豪華な設備のため、施設の契約金は一千万円ほどだ。中には自宅を売却して、そのお金を施設の契約金にあてる顧客もいる。お客様は人生がかかっているため、突然施設に入所できないなどと言われたら、狼狽するのは当然だ。
 悠司は手にしていた封筒から一枚の白い紙を取り出した。それを広げて、みんなに見えるように掲げる。
「それがこの手紙というか、文書だな。お客様からお借りしたものだ。おそらく同じものが伊豆の契約者全員に届けられている」
 社員たちは身を乗り出して、文書を見た。
 確かに丁寧な言葉で、伊豆の施設が売却されること、入所が不可能になったため解約を促すことなどが書かれている。しかも差出人は、株式会社ベストシニアライフと、はっきり印字されていた。パソコンで作成した文書なので、誰にでも作れるようなものだ。
 だがもちろんそんな文書を誰も作成しているはずがない。
 みんなは訝しげに首を捻っていた。
 悠司は言葉を継ぐ。
「土地の所有者と連絡が取れたが、土地の売却や競売の事実はない。土地の賃貸契約は問題なく守られている。また、ベストシニアライフが倒産の危機にあるなどといったことは事実無根だ。無論、伊豆の施設が売却されることはない。この文書は根も葉もないデタラメである」
 それを聞いた紗英は、ほっとした。やはり、事実無根のことだったのだ。
 社員の間からも、安堵の息が漏れる。
 咳払いをした本部長は、社員たちを見回した。
「つまりね、何者かがこの文書を作って、わざわざお客様に配布し、我々を陥れようとしたというわけだ。おそらくライバル会社の仕業ではないかと思うが、なぜうちの顧客情報を知っていたのかという疑問が残る。まさか、きみたちの中に――」
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