スノードロップと紫苑の花
🍦

彼と距離を置いてからもう2週間。

あれから連絡は取っていない。

「紫苑、本当にいいの?」

「何が?」

「わかってるでしょ」

わかっている。

このままでいいわけがない。

でも私といることで彼が不幸になるのが怖かった。
だからこのまま自然に消滅していくのがいいと思った。

「本当はまだ好きなんでしょ?」

好きだよ。

好きで好きでたまらないよ。

だからこそ私じゃない。

彼の優しさに甘えて、その甘さにつけ込んじゃうことが怖い。

「彼は私とおったらダメになる」

彼は優しすぎる。

私のルーズなところを受け入れてくれることが最初は嬉しかったけれど、それに胡座(あぐら)をかいている自分がいた。

約束の時間を勘違いしてめっちゃ遅れちゃったときも怒らなかったし、結構無理なわがままを言っても快く受け入れてくれる。

きっとこのままだと私が彼を不幸にしてしまうのではないかと思った。

「でもさ、それ勝手じゃない?」

「えっ?」

「それは紫苑の気持ちでしょ?彼のこと本気で考えてるならちゃんと話すべきだよ。気持ちなんて言わなきゃ伝わんないし、別れずに中途半端な関係性ずっと続けていくわけ?」

優梨の言う通り。

「それにもし逆に同じことをされてたらどう思う?」

頭ではわかっていた。

このままだとぐだぐだになって彼が本当に離れていってしまう。

それでも私は踏み込めなかった。

2週間ずっと引きずってきて今更何て言ったらいいの?

彼からの連絡も何で返せばいいの?

時間が経てば経つほど私の心の中が(にご)っていく。(よど)んでいく。(くす)んでいく。

そうして悩み続けてから数日後、バイト先のメンバーで『たこパ』をすることになった。

メンツはKAWAHARAの4人と男の先輩2人。

スーパーでお買い物をし、みんなでキッチンに立ってお野菜を切ったりお皿を用意したりと普通に楽しんでいた。

お姉ちゃんと住むこの家は思っていたより広くて住みやすい。

私がもともと1人で住む予定だった場所はオートロックじゃないし、階段も(きし)むし、火事が起きたら一瞬で燃えちゃいそうな(つた)の生えた古い六畳一間のぼろアパート。

郵便ポストもダイヤル式ではないような昭和の雰囲気漂うお(うち)

個人的にははじめての一人暮らしだからノスタルジックな雰囲気で良かったんだけれど、色々と心配してくれたお姉ちゃんが一緒に住みなさいって言ってくれていまに至る。

パーティーは私のお家で行われることになった。

お姉ちゃんは有給を使って新しい彼氏と旅行に行っているから数日間帰ってこない。

バイト先から1番近いのが私のお家という安易な理由。

彼と距離を置いてからというもの、ハッキリしない態度に優梨ともちょっとだけギクシャクしていた。

それもあって私はお酒は飲みすぎてしまった。

何杯くらい飲んだんだろう。

カクテル、ウィスキー、ワインに日本酒。

みんな心配してくれていたけれど、私のお家ってこともあって気が緩んでいたのかもしれない。

「そろそろ解散しよっか」

先輩のうちの1人の清田(きよた)先輩は彼女以外の女性にも優しい紳士。

みんなで片づけをして解散した。

それからどれくらいしたのだろう。

5分くらいしてからかな。

扉をノックする音がした。

お酒が抜けなくて頭がクラクラするなか扉を開けるとそこにはさっきまで一緒にいた砂金(いさご)先輩が立っていた。

「先輩、どうしたんですか?」

「ちょっと忘れ物をしたから中入れてくれる?」

そう言って中に入り、先輩は部屋の中を探し出した。

私はベッドに腰掛け、
「何を忘れたんですか?」

そう聞いたけれど、

「えっ?あ、うん、ちょっとね」

何か様子がおかしい。

本当に忘れ物をしたのだろうか?

「一緒に探しますよ」

「いいよいいよ、大したものじゃないから」

なんだろうこの違和感。

ニコニコしているのに目の奥が笑っていない感じ。

けれどいまはものすごく挙動不審。

「もう夜も遅いし、見つかったら連絡しますよ」

そう言ってベッドから立とうとした瞬間。

ガバッ!

私の両肩をグッと押し込むように両手で強く押し倒された。
その力はあまりに強く抵抗の余地はなかった。

状況がつかめず気が動転していると、馬乗り状態の先輩の左手は私の両腕を強く押さえつけ、右手で洟と口を塞がれた。

先輩の目は血走っていて、獲物を狩る獣と同じ眼をしていた。

耳元で「神法のことずっと前から好きだったんだ。だから1回だけ」

恐怖心が全身を駆け巡る。

声が出ない。息ができない。

(やめて)

心の中でそう叫ぶ。

先輩の荒い呼吸が私の耳元に当たるたびに気持ちが悪くて吐きそうになる。

(やめて)

さらに強さを増す心の声。

呼吸ができないままなんとか抵抗を試みるも、先輩の強い力には敵わない。

徐々に意識が朦朧(もうろう)としていき、全身の力が入らなくなるとそのまま気を失った。

ー気がつくと、手足をテープで縛られ下着姿になっていた。

先輩の顔が私の身体を味わうかのように上から下へとゆっくりと舐め回す。

「やめてっ!」

怒りと哀しみと苦しみが混在した声で精一杯叫んだが、虚しく壁に反射し消えていく。

足の指先まで舐め回した後に顔が私の口元に近づいてくる。

(こいつの思い通りにはさせない)

ふと冷静になっていた自分がいた。

キスをさせるフリをして、ギリギリのところで先輩の喉元を思いっきり噛んでやった。

「痛って!」

喉仏のあたりを押さえている手からは私の歯形が見えた。

もっと強く噛んで引きちぎってやれば良かったと思ったけれど、一瞬(ひる)んだ隙に飛び跳ねるように全身で払い除け、先輩はベッドから落ちた。

(一刻も早く逃げなきゃ!)

縛られていたテープを剥がそうと抵抗するも急に焦りが出てきてうまく剥がれないでいると、上気した先輩は首元を押さえながらまた馬乗りになってさっきよりも強い力で締めてきた。

その眼はより獣と化していて恐怖から身体が一気に硬直した。

(けいくん……たすけて……)

心の中で叫んだがその声が届くことはない。

あまりの強さに苦しくなってきて意識が飛んだ。

ーそれはほんの数分のできごとだった。

意識が戻ると私の身体は汚れていた。

髪もメイクも乱れ、先輩の汗と唾液が全身に染みついている。
(みじ)めで(あわ)れな姿。

こんな姿誰にも見せられない。

鏡を見ながら何事もなかったかのように服を着て髪を整えている先輩に殺意が芽生えた。

すると、扉が開く音がした。

終電はとっくにない。

こんな時間に来る人は限られる。

もし彼だったとしてもこんな姿見ないでほしい。

この最悪な状況知らないでほしかった。

私は好きでも男に身も心も汚された。

一生の汚点。

色々な感情が私を襲う。

それは嬉しいというより切なさと虚しさが合わさった言葉にし難い感情だった。

扉の方を見ると、そこには彼の姿があった。

「け、い、く……ん……」

彼の目を見た瞬間、大粒の泪が溢れてきた。

地球上の水分すべてが私なのではないかというくらい何度洟を啜っても止まらない。

私の哀れで醜い姿を見た彼は着ていたトレーナーを私にかけてそっと優しく抱きしめてくれた。

温かい。

久しぶりに感じる彼の温もりにまた泪が滝のように溢れ出た。

痛くならないよう優しく手足のテープを剥がすと、ヤツの方を睨めつける。

その顔は怒りと憎しみに満ちていて、いままでに見たことのないくらい恐ろしく怖い表情だった。

彼は何も言わず先輩のもとへと行き、勢いよく壁に押しつけながら胸ぐらをつかんで睥睨(はいげい)する。

「な、なにすんだよ!」

その言葉を無視し、宙に浮いた状態の先輩をさらにぐっと壁に押しつけた。

「お、お前が神法の彼氏か。な、なんでお前みたいなチャラそうなのが彼氏なんだよ。俺の方がよっぽど釣り合うじゃねぇか」

彼はヤツの言葉を歯牙(しが)にも掛けず、つかんでいた手を離し、その場からいなくなった。

乱れた服を両手で直しながら、
「ふん、わかればいいんだよ。ったく、こんな暴力的な男と付き合うなんて本当に神法は見る目がないな」

数秒後、部屋に戻ってきた彼が右手に何かを持っている。

お姉ちゃんの彼氏が防犯用に置いていった金属バットだ。

それをヤツの顔に向かって頭上から大きく振りかぶる。

「けいくん、やめて!それだけはダメ!」

彼にしがみつき、必死に止める。

「大丈夫。殺しはしねぇよ」

「もういいよ」

さっき拭い切ったはずなのにまた泪が出てくる。

もうメイクがぐちゃぐちゃで前がよく見えない。

その様子を見ていたヤツは呆れたように、

「もう帰っていいかな。今日は十分楽しませてもらったし、神法思ったほどでもなかったし」

その発言と態度に私の中で何かがプツっと切れた。

しがみついていた彼の身体から離れ、台所へ向かった。

引き出しを開けて包丁を取り出す。

踵を返し、アイツのいる場所を確認する。

彼からバットを取り上げて頭を思いっきり殴ることも考えたけれど、間違って彼に当たって怪我でもしたら大変だから確実に()れる方法を選んだ。

血の流れが早い。

上気に満ちた体温は沸騰寸前状態。

包丁を持つ手は少し震えていた。

ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ怖かった。

物理的に誰かを傷つけることなんてないから。

でもこの男だけは(ゆる)すことはできない。

だから覚悟を決めた。

深呼吸をし、勢いをつけて一直線に走り出す。

グサッ!

鈍い音が壁に反射した。

皮膚を貫通する感覚がした。

倒れたのはヤツではなく、彼だった。

「な、なんで……」

たしかにヤツに向かって刺したはず。

それなのになんで彼が倒れているの?

腹部から赤い液体がポトポトと床に落ちていく。

勢いを増していく鮮血は彼の青ざめていく顔を逃避しかけた現実へと押し戻していく。

私が刺す直前、一瞬目を閉じてしまったときにヤツを(かば)ったのだ。

それに気づいたとき冷静になった。

手に持っていた包丁を落とし、彼に抱きつく。

「けい、くん」

「し、おん……」

「なんで?」

「し、おん、好き……だよ……」

答えになってないよ。

私、好きでもない男に犯されたんだよ?

それなのに何で(かば)うの?

「ご、めん……な……」

なんで謝るの?
謝るのはこっちの方だよ。

悪いのはアイツ。全部アイツのせいでこうなったんだよ。

泪が止まらない。どんなに洟を啜っても溢れ出てくる。

「けい、くん……ごめん、なさい……」

そう言いながら救急車を呼ぼうとする。

でも指が震えて上手くタッチできない。

もう、こんなときになんで。

私の手を握る彼の手は徐々に力を失っていく。

「し、おん」

「ん?なに?」

「幸せ、に、なって、な……」

イヤだよ。こんなのイヤ。

私はあなたといたいの。

あなたじゃなきゃダメなの。

話したいことたくさんあるんだよ?

一緒にやりたいことあるんだよ?

イヴだって一緒に過ごせていないし、海外旅行にもまだ行けていない。

約束したよね?一緒にいようって。

約束したよね?もうどこにも行かないって。

ダメ!
死んじゃダメ!

「あ……り……が……」

握っていた彼の手がゆっくり落ちていく。

それが彼との最期の会話だった。


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