ワインとチーズとバレエと教授

午前11時ちょうどから、誠一郎の最終講義が始まった。講堂は学生や一般公開の人々でびっしりで、中に入っても、立っている人々もいた。
医局員の医師たちは全員、後ろで起立している。
テレビ局も何社か来ていた。

10時59分、誠一郎は静かに講堂に入り、ピンマイクを胸元につけ11時ちょうどに

「では、最終講義を始めます」

と言って、今までの研究結果や症例、臨床現場においての話をした。
難しい話もあったが、それでも誠一郎の姿を見て
理緒は誠一郎を誇らしく思った。
相変わらず美しく、繊細な指先ー
理緒は誠一郎を見てそう思った。
講義は終盤に差し掛かり誠一郎は、父親が医師であったこと、またこの大学病院の精神科の教授であったこと、そして若年性アルツハイマーになった父と、その上で医師として、家族としてどのように接したらよいか苦悩したこと、

また患者の家族が同じような思いで外来に来たとき 
、自分自身と混同して診察がはかどらなかった苦悩などを話した。

そして自分が教授として短い時間、歩んだ道を支えてくれた 医局員たちに感謝していると、最後はお礼を述べた。

「私は医師として父親のこともあり、精神科という特殊な環境において、感情というのは徹底的に排除してきました。いつも冷静であり続けることが、患者様との適切な距離感を保ち、客観的な診察につながり、それが最善であると信じていました。そんなとき、私はある患者に出会いましたー」

理緒はドキッとした

「私はその患者の初診の日、冷たく突き放しました。その患者を見ていると、何か思い出してはいけない小さい頃の記憶を思い出すからです。
でも最終的に私はその患者に救われました。
客観的であればあるほど、臨床現場がいいわけではありません。患者様と寄り添う姿勢も行き過ぎてはいけません。ただ最後は、人間力でしか人は変わりません、それは、医師も患者様もですー
私の心を動かした当時の患者さんをご紹介しましょう、あなた…」

誠一郎は講堂の後ろに座っていた理緒に視線を向けた。

「どうぞこちらへ、前へどうぞ」

理緒は、驚きながらも、恐る恐る、コツコツと講堂の階段を降り、教団の前にいる誠一郎の前に進んだ。

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