異世界からの逃亡王子に溺愛されています ~『喫茶マドレーヌ』の昼下がり~
第1章 オーブンが爆発した!
「あーー、焦げたっ。昨日は焼き足らなかったし。温度が定まらないなぁ。さすがにもう寿命なのかな?」

 吉村《よしむら》多希《たき》は焦げたマドレーヌを見ながらため息をついた。

 祖父母が使っていたオーブンは今年でもう四十年選手だ。メンテナンスを欠かさず大事に使ってきたが限界のようだ。

 多希は焦げたキュシュを申し訳なく思いながらごみ箱に捨て、温度を二十度ほど下げて設定し直した。これから焼くマドレーヌをオーブンの中に入れてタイマーをセットする。

「今度はちゃんと焼いてね」

 そうオーブンに向かって語りかけるも、返事はない。当然だ。相手はオーブンなのだから。

「こんなタイミングで調子悪くなるってことは、やっぱり閉めろってことなのかなぁ。仕方ないね」

 はあ、と大きなため息をつき、椅子に腰を下ろす。そして切ないまなざしを調理場に向けた。本当だったら、開店時間前で大忙しであるはずなのに。

『喫茶マドレーヌ』を休業にして早くも二週間が経った。

 さんざん嫌だとごね、最終営業日を惜しんで過ごしたというのに、いまだにあきらめがつかない。そもそも『休業』ではない『廃業』なのだ。

(おじいちゃん)

 八十歳になった祖父は、最近少し認知症の兆しが出てきた。多希も気にはなったものの、元気に働けるならと思ってなにも言わなかった。だが祖父は物忘れを理由に、先日老人ホームに入ってしまったのだ。

 急に入れるはずもないので、おそらくずいぶん前から、自分のこと、多希のこと、それぞれの将来を考えて準備していたのだろう。そのため長年やってきたこの『喫茶マドレーヌ』も閉じることになった。

 多希は一人でもやりたいと懇願したのだが、若い娘が一人でやりくりすることは難しいだろうから、普通に就職しろと言って、頑として継続を許さなかった。

 感情的に続けたいと思っても、実質的には確かに祖父の言う通りだ。一人で料理をし、ホールもし、というのは難しい。やったとしても案内できる客数は限られるので採算が取れない。

 仕方なく就職先を探すことにしたけれど、これと思う求人もなく、一度も応募せずに今に至っている。

(キュシュなんか作っていず、早く就職先を見つけないといけないことはわかってるんだけど)

 未練がどうしても一歩前に進ませてくれないのだ。

 BBBBB……

 スマートフォンが振動を始めた。メールが着信したようだ。

 見なくてもどんな内容か想像がつく。店を閉めてから、不動産会社やらなにやらからの勧誘メールが激増した。

 閉店したこと、祖父がいないことを聞きつけた者が、やたらメールや電話をしてくるのだ。ここの不動産を売ってほしいのか、別の事業形態にしたいのか。

 他にも客から再開してほしいという連絡も来る。中にはなかなかしつこい客もいて、辟易とさせられることもある。

 とはいえ、本当に親しい常連客は祖父のことをよく知っているので、会った時になにか言うことはあっても、こんなふうにメールや電話をしてきたりはしない。

 親しい者にはメールではなく、チャットアプリに連絡してほしいと頼んでいるから見ずに捨てても問題ない。

 多希はすべてのメールを迷惑メールフォルダに振り分け、さらに完全に削除した。

「まったく」

 もう一度、はあ、とため息をつきそうになって、ふと妙な音に気づいた。

「? なに?」

 オーブンから、ウイーーン、という唸り声が起こっている。それだけではない。中が真っ赤だ。

「ちょ……」

 なんだか激しく嫌な予感がしてくる。

「止めたほうがいいよね? いいよね!?」

 誰もいないのは百も承知だが、つい言ってしまった。そして焦りながらオーブンの停止ボタンを押そうと手を伸ばした時だった。

 ブーーン! と、音がさらに増して、真っ赤だったオーブンの中が黒く染まった。

「あ!」

――――――!!

「ひぃぃぃぃっ!」

 多希は耳をふさいで床に這いつくばった。背後から真っ黒な煙が押し寄せて一気に店中へ広がる。

(は、早く、消火器っ! 火事になったら!)

 そう思うが恐怖で体が硬直してしまって動かない。

(お……おじいちゃん、おじいちゃん一人残して死ぬなんてヤだぁーーー!) 

 老人ホームにいる祖父は会いに行くと、とても喜んでくれる。自分で決めたこととはいえ、たった一人の家族である孫の多希と離れるのはつらいのだろう。

 うれしそうな笑顔を見ると、いかに寂しい思いをしているかを痛感する。

 そして多希も、寂しさと愛しさを強く覚える。

 優しく、厳しく、深く慈しんでくれる人との大切な時間が少しずつ減っていく感じがして、寂しくて仕方がない。

 その祖父を置いて自分が先に死ぬなんて。

 母は多希の父が誰か言わないままに、出産時に他界した。多希は両親の顔を知らず、祖父母に育てられたのだ。

 さぞかし大変だったことだろう。だが、それ以上に、娘を失ってつらかったことだろう。それなのに、孫の自分まで同じ苦しみを与えてしまうなんて。

(ダメだ、でも、でも!)

 足が震えて止まらない。店の中は黒い煙が充満して――そう思って顔を上げた多希は両眼を見開いた。

(どういうこと? 煙が消えていく)

 黒い煙が見る見る消えていく。それに今気づいたが、まったく臭いがしないし、煙たくもない。

 多希はゆっくりと立ち上がった。

 レンジは、と振り返って目を瞠る。

「なっ、なにっ!?」

 人がうつ伏せで倒れているではないか。それも二人。大人の男性と、男の子が。

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