月と太陽

宮島裕樹とは

 朝、スマホのアラームが部屋中に響き渡る。本当なら妻の一声で起きるはずが、アラームに頼らなくてはならなくなった。リビングに入ると、タイマー予約をし忘れた暖房。冷え冷えとなり、吐いた息が真っ白になる。体がガタガタと震えた。すぐにエアコンの暖房にスイッチを入れる。やかんに水を入れて、IHのボタンを押してお湯を沸かした。その間に、クローゼットからハンガーごと服を取り出して着替えた。ネクタイとジャケットと、靴下と、服を揃えるだけでアクションが増える。前までは妻に用意してもらっていたのに、なんでこんな独身生活に戻ってしまったんだろう。テーブルには、綺麗に名前を書かれた離婚届の紙が2枚置いてあった。やかんの沸いた音が鳴り響く。慌てて、スイッチを切り、ドリップタイプのコーヒーを入れた。ふぅーと湯気を飛ばして、木のカゴに入っていたロールパンを食べた。最近、ゆっくり朝ごはんなんて食べていない。立ちそばならぬ、立ち食い朝食になっていた。スマホに妻の名前が表示され、バイブが鳴る。気づかないふりをして、間を置いてから電話に出た。
「はい、裕樹。……ああ。離婚届ね。近いうちに書いておくよ。わざわざ2枚も丁寧に書いてたみたいで、書き損じになっても大丈夫だね。」
 コーヒーを口に含んだ。ロールパンが口の中でふやけて食べやすくなった。ジャムもチョコもクリームもない味気ないパンがコーヒーで満たされた。
『わたし、離婚が成立したら、すぐに荷物取りに行きますから、まとめててくださいね。荷造りはお得意でしょ?』
 嫌味のある言い方で妻は電話越しに言う。もう、こう言う喧嘩もできなくなると思うと寂しさがよぎる。
「ああ、やっておくよ。手続きが済んだら電話する。悪い、もう仕事の行く時間だから…」
『あ、あとね!……』
 話そうとする瞬間に聞かずに通話終了ボタンを押した。裕樹は、これ以上傷つきたくなかった。もう、新たな生活を始めたいと思っていた。あんなに何十年と片想いを寄せた妻と結婚できたのに、こんな別れ方想像できなかった。これ幸いなのか、不幸なのか、裕樹夫婦には子宝に恵まれなかった。どちらかの原因で出来ないはずだったのだが、検査することもなく、2年という短い結婚生活は破綻した。心のすれ違いが多く、仕事に夢中になるばかりに妻のことを支えてやれなかったことなのか、それとも、妻の浮気そのものがいけなかったのか、浮気されたことも寂しい思いをさせてしまったからだと自責の念にかられてしまう。宮島裕樹は、若干28歳という若さでバツイチという勲章を作ってしまった。そんなプライベートではドロドロの状況下でありながら、大越さとしという青年に頬を殴られたかと思えば、雪村姉妹に会い、若い青春の恋愛感情が見え隠れしていた。まだ離婚届は正式に受理してなかったため、結婚指輪を外すのもためらっていた。花鈴を一目見た瞬間に、新たな気持ちが芽生えて過去の自分を振り切るきっかけになっていたのだった。どこか温かさがある3人に心惹かれた大人の男だった。

 職場の裕樹はひたむきにコツコツと仕事に向き合う真面目な人間だった。自分でも言うようにイエスマンでいることの方が多く、上司や先輩に逆らうなんてもってのほか、敷いたレールの上をただただまっすぐ進んでいくのが好きだった。電車もレールがないと進めない。もし、気持ちがぶれるようなら脱線する。今回の事件もある意味、上司に逆らって行動するようになる。もうクビ覚悟で、所長に異議を唱えた。ズボンのポケットには辞表を持ち合わせていた。これが思うように進まなければ、仕事を辞めてでも、雪村花鈴を救いたいと言う一心だった。
 死に物狂いで高校3年間勉強して国立大を現役合格し、首席で卒業し、今の倍率の高い職場の地位を勝ち取った。働いて6年目、異例の昇格で、部長の肩書きまで手に入れた。青二才に出来るわけがないと年上平社員に妬まれることもあった。結婚もして、家庭よりも仕事優先にし、離婚されて、この状況で、失うものは職でも構わない。リセットさせてもいい覚悟の上だった。望みが叶うなら世の中を変えてもいい。出来るわけないと思う反面、微かな希望さえも持っても良いじゃないかと自問自答した。だが、やはり人生、そんなに甘くはなかった。上司に掛け合っても首を縦に振ることはなかった。会社の地位や名誉を守るため、ロボットというこれからのIT社会を守るため、真実を明かすことは不可能だとはっきり言われた。裕樹は、所長の名札がある机に辞表をバシッとおいて、立ち去った。慌てふためく所長は、考え直せと叫ぶが、裕樹は後ろを振り向かなかった。左胸についた名札を取り、休憩室のロッカーに向かう。ロッカーを開けて、鏡を見つめる。本当にこれで良かったのか。6年間築き上げた仕事は一瞬で終わりを告げた。なんだ、こんな簡単に終わるじゃないか。仕事に追われた日々から逃げたかったのかもしれない。休みガチの後輩のために休日出勤することもあり、上げなきゃいけない書類を夜の22時まで掛かって残業したり、疲れてたんだろうな。無理してたんだと思う。やりたくもない仕事を負わされ、断れない。肩書きがあって、後輩の尻拭いもしなくちゃいけない。上司にはぺこぺこ頭を下げて、気を遣わないといけないし、そんな仮面を被った自分が嫌になったのかもしれない。左手で両目を覆う。その場に静かに泣き崩れた。これで解放されると思うと緊張の糸が切れて、涙が流れた。泣くと共に笑いも込み上げてきた。自分は一体何をしていたんだろう。気持ちが落ち着いて、持てるだけの荷物を持って家路に急ぐ。今日のお酒はかなり美味い物になることだろう。1人静かに深酒をして、朝になるまで起きることはなかった。数十時間寝ていたが、それがまるで1週間くらい寝ていたようにぐっすり眠れた。スマホのバイブと着信音で目が覚める。
 スマホには『大越さとし』と表示された。
「……はい。裕樹ですが。」
 二日酔いのせいかロレツが回らない。
「宮島さん? 今起きたんですか? もう12時半ですよ。もしかして、休憩中の昼寝?」
 仕事に行ってるであろう質問に何も答えたくなかった。
「……もう切るぞ。」
「うわ、ちょっと待ってくださいよ。こっちだって、学校の昼休みですよ? こんな時間に電話するって大変なんですから。」
「はあ……あのさ、俺に期待するの間違ってるから。」
「え?? それってどういうことですか? 無理だったってこと?」
 しばし沈黙が続いてから
「そう言うことだ。俺、もう無職だから。何も出来ないよ~……寝ることはできるがな。おやすみ。」
 さとしは、慌てる。
「頑張って上司に掛け合ってみたけど、やっぱりIT系のロボットに関するマイナスなニュースは積極的に流せないってさ、例え個人の訴えがあっても、背景には多大なる予算?って言うのかな、お金が関連してるから無理だってさ。俺さ、初めてなんだよ。上司に逆らうの。あまり、大きな態度取れないからさ最後の切り札のように辞めて来たったわけ。俺も休み欲しかったからさ、ちょうど良かったよ。」
 ぼやくように本音をポロポロ言い始めた。さとしは、申し訳なさそうに何も言えなくなってしまった。しばらくして…
「何か、宮島さんを巻き込んでしまって本当に申し訳ないです。そしたら、俺、今日宮島さんに退職祝いのご飯ご馳走しますよ! 地図送っておきますから18時にきてくださいね。そろそろ、午後の授業始まるんで、それじゃ。」
 さとしは、気持ちを切り替えるように、裕樹に地図を送信した。先日行った喫茶店マンチカンの行き先だった。
「あのさ! 俺は年下から奢られるほど落ちぶれていないっつうの。って、もう電話切れてるし。仕方ないなぁ。」
 鏡を見ると寝癖が大きく出来上がっていた。ボリボリ頭を掻く。着ていたスーツやワイシャツもクシャクシャのボロボロ。テーブルには飲みかけのグラスがあった。取ろうとしたら、見事にカタンと倒れ床にこぼれた。買ったばかりのカーペットがびしょ濡れになる。慌てて近くにあるタオルで拭いた。それは雑巾だと妻がいたら怒られてた。そんなことも言われなくなった。こんなにも寝過ぎたことはなかった。何も職を持たないってこう言うことなんだと時間を忘れて眠れる幸せを感じてしまう。
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