月と太陽

気持ちは予期もしないところで変化する?


 寒空の夜、高層マンションのベランダでタバコを吸った。もう、人目を気にせずタバコを吸う本数が増えた。1日1箱無いと、落ち着かない。白い息とタバコの煙が舞い上がった。上を見ると、月が細く細く見えるか見えないかの状態になっていた。静かに泣いたあの月は輝くことは出来なくなる。新月になって見えなくなる。現実でも相手を輝かせたい人を輝かすことができない。近くに住んでいるのに守りたい人のそばにいられない。辛かった。本当の自分を隠して生きている。それでも自分が選んだ道。太陽であり続けることができなくなった。妻となった加奈子の奴隷のように生きて何が楽しいのか、首に鎖が巻かれた呪縛のようだった。逃げたい。でも逃げられない。公私混同で仕事も家に帰っても上司と一緒、元カレの監視。望んでここにいるなら耐えられたが、そうならざる得なかった。紗栄に会いたい。そばに行きたい。でも、もう行けない。
 3週間前、さとしは紗栄にこう電話で言った。
『ごめん。紗栄、今日帰れない。』
「え? そうなの? んじゃ、オムライスとサラダ。タッパに入れておくね。」
『…たぶん、それ、食べられない。』
「あ、そうなんだ。んじゃ私、食べておくね。また別な時、作るから。」
『うん。それも無理かもしれない。』
「え? そんなに仕事忙しいの?」
『そう……溜まってた書類片付けなくちゃいけなくて…うん。ごめん。』
「そっか。無理しないでね。」
『紗栄、本当は直接会って言いたかったんだけど…。』
 紗栄はソファに座って電話に集中してテレビのスイッチを消した。
「え、なに? どうしたの?」
『別れよう。』
「……え? どういうこと」
『うん。別れて欲しいんだ。俺には、もう紗栄のこと支えるのは辛い。重いんだ。』
 さとしは心にもないことを言った。本当は今すぐにも抱きしめてずっとずっと一緒にいたかった。重くなんて全然ないのに、こんなにも苦しいなんて思わなかった。さとしはこれ以上話すことはむずかしかった。電話をしていた場所は、紗栄のいるアパートの玄関のドアの前だった。
「あ、あぁ……そっか、重かったか。私、尽くしてしまうからかな。ごめんね、辛い思いさせて……。ありがとう。」
 声を詰まらせて、紗栄は答えた。頬に涙を伝う。さとしも、声にも出さずに目を覆って泣いた。こんなに近くにいるのに、手を握ることができず、頬を触ることもできなければ抱きしめることもできない。やっぱり、あの時、あの瞬間、ギューと抱きしめておけばよかったと後悔した。
「荷物は紗栄が仕事の時に取りに行くから、気にしないで。アパートは3月まで使えるからそれまで使ってていいよ。それじゃ。」
 さとしは、紗栄の声を聞かずに、通話終了ボタンをタップした。立ち上がって、後ろ髪ひかれるようにその場を後にした。紗栄はソファから崩れ落ちて、泣き明かした。あんなに好き合っていたはずなのに、気持ちのすれ違いがあったとは思わなかった。信じられなかった。心はいつから離れていたのか。出張で新しい女の人でも好きになったかなと自信なさが溢れ出てきた。呆然と、何をするってわけじゃなく30分泣いたらすっきりしたのか、コーヒーを落ち着いて飲めた。マグカップのとってに手をやると、スマホがバイブレーションとともに音が鳴った。画面には花鈴と表示された。
「もしもし?」
『ちょっと、ちょっと。Instagram見た?大変なことになっているよ。』
 紗栄は、興奮して、話している。緊急事態のようだった。
「え、今、電話してるから、ちょっと待ってiPadで開いてみる。検索ワードは?」
 紗栄は花鈴にいわれた通りInstagramを開いて、検索を『KARIN』と入力した。見ると、紗栄と花鈴が映っている写真がインスタ映えしているせいか、何がバズるか分からない。フォロワー数が10万超えていた。いいねとコメント数も半端なくついていた。内容は比較的、肯定する文面が多かった。
『フォロワーさん双子みたいで可愛いってさ。お姉ちゃん、事務所の社長が一緒にモデルの仕事してみないって言っているのよ。やらない?』
 まさかの朗報。自己肯定感の低い紗栄は、信じられなかった。昔から、妹と比べられて、妹の方が可愛いよねって親戚のおじさんおばさんたちは言われてきた。大人になって、いろんな雑誌やYouTubeのメイク動画を屈指して、研究して、いかに人様に可愛く見られるかを工夫した。なろうと思えば、メイクアーティストになれるかと思っていたが、まさか自分が表舞台に出るとは考えもしなかった。毎日同じ作業で上司に媚び売って、コーヒーやお茶出しするOLよりはとても刺激的に過ごせるかもと期待してしまう自分もいた。
「こんな私でいいのかな」
『答えはフォロワー数で出てるでしょう。私だけでInstagramしても2万までで横ばいだったんだからきっと大丈夫……あ、洸! 危ないでしょ。』
 電話口の方で泣き叫ぶ甥っ子の洸の声がした。まだまだ小さいイタズラ好きだった。イタズラしようとして転んで頭をぶつけたらしい。泣いている。
「ん? 花鈴、今日仕事休みなの? 洸くん、大丈夫?」
 洸を抱っこして、電話を続ける。
『そうそう、久しぶりの休暇もらえてね。普段はベビーシッターさんに頼むんだけど、今日は一緒に過ごしていたよ。裕樹は、今買い物行ってるところ。お姉ちゃん、遊びにおいでよ。今日の夕食はたこ焼きだよ。』
 ギャンギャン泣いている横で、話し始める。途中聞き取れなかったが、とりあえず遊びにおいでと聞こえた。花鈴はアンパンマンのおもちゃを差し出して、落ち着かせた。丸いものには目がない洸は、どうにか落ち着いた。
『あんぱん、あんぱん。』
 洸は、アンパンマンを握りしめた。
『んじゃ地図、ラインに載せておくから、おいでよ。裕樹は多分5時半過ぎに帰ってくると思うよ。待ってるねえ、おばちゃん!』
『おーば、おーばちゃん!』
 洸は、さけんでいる。それを聞いて微笑ましく感じた。紗栄は、居場所を見つけたと高ぶっていた感情が平常に戻された。
「わかった。準備していくよ。ありがとう、花鈴。」
 数十年会っていなかった姉妹の関係が平和になろうとしていた。電話を切ると、一気にリビングは暖房がついているのに気持ち寒かった。いますぐこの場から立ち去りたくて仕方なかった。荷物をまとめて、スマホのラインを確認した。地図を見ると歩いていける範囲にあった。高層マンションのようだった。頬を両手でパチンとたたいて、気持ちを切り替えた。バタンと玄関閉まった。ドアの前には見たことあるZIPPOライターが落ちていた。さとしにプレゼントしたものだ。とりあえず、それを拾ってコートのポケットにいれておいた。

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