月と太陽

天は二物を与えず


 スコフィッシュフォールドのお店の回転の流れも順調に進み、宣伝効果もあってか常連も増えてカフェ経営も成功と言えそうな頃、新しい学生バイトをもう2人雇うことにした。


 その1番の理由が、紗栄がまともに業務に入ることが困難になってきたのだ。 

 
 賄いの食事中に突然の嘔吐反応かと思いきや、だるさが生じて、一日中立つことができず、ベットに寝たまま動けない状態だった。


 原因不明の症状にさとしは焦りを見せて、バイト募集の張り紙をすると、当日中に10人ほどの応募があり、厳選して面接をして、大学生の男子1名と短大生の女子1名を雇うことに決めた。


 明日からその新人が入ることになり、仕事マニュアルを早急にパソコンで作成してた午後11時。


紗栄は、1日中、具合悪くて、寝ていた寝室からぼーと起きてきた。


「ごめん、今日のお店、大丈夫だった?」

 階段の手すりを掴まりながら、キッチンの椅子に座って作業していたさとしに声をかけた。


 休憩室に置いていたプリンターに行ったり来たりしていた。


「ああ。何とか、遼平にキッチンとホール、行ったり来たりだったけど、やってくれてたから大丈夫だよ。気にすんな。あと、1週間前に面接してた子が明日から2人来てくれるから安心して……悪い、今、マニュアル作りしてた。これがこれで…。」


 A4用紙を並べてそれぞれ10枚綴りの本のようにして、ホチキスで止めていた。

 紗栄はパジャマの上にカーディガンを羽織って近づいた。


「手伝うよ。」


「ごめん、んじゃ、それホチキスで止めて。あと2部かな。俺と紗栄の分な。教えた内容覚えておかないと間違ってますって言われたら困るからな。共有しておかないと…あと、バイトはホールとキッチンそれぞれに分けるけと、休んだ時のこと考えてある程度どちらの仕事も覚えてもらうよ。ホールの人は調理補助の部分は覚えて、キッチンはホール全般は覚えてもらうと…お互いに補えるようにしないとな。遼平先輩がいるから大丈夫かな。基本、遼平はキッチンにいてもらいたいからな。作るメニュー増やしたいって言ってたし。」


 
 揃えて止めた5部の書類を全てまとめて、クリアファイルに挟めておいた。


 さとしは、作業をやり終えて、ノートパソコンの電源とプリンターの電源を落とした。


「紗栄、そういや、病院行ったのか? 具合悪いって…何か変なものでも食べたんじゃないの? お腹壊したって。」


 バタバタとそこらじゅうの散らかった文具や用紙を片付けながら話し出す。



「うん。病院には行ってないんだけど…。毎月のが、ずっと来てなかったから、明日薬局に行って検査しようと思って…。」


 さとしの片付けてた手が止まった。



「え、それって…できたの?」



「いや、まだ検査しないと分からないし、ただ遅れてるだけかもしれないし…また流れるかもしれないから…。う、気持ち悪い。」



 また吐き気を感じて、トイレに駆け込んだ。

 出そうで出ない、よだれだけがただ口から出ていく。


 それは、よだれつわりだった。


 症状は、突然やってくる。


 満足に食事も取れず、落ち着かず、トイレと友達になることもしばしばある。



「それって、つわりじゃないの?」


 紗栄の入るトイレの前のドアで両腕を組んで、さとしは推理する。


 前に妊娠していたときは完全なる嘔吐で食べたものを全部吐いていた。


 よだれだけが出るということはなかった。


 その時と同じ症状であることは医者ではないさとしでも予想はついた。



(分かってはいるけど、なんでつわりとかって男子は苦労しないのかな。腹が立って仕方ない。代われるものなら代わってほしい。)



 紗栄はブツブツ文句を言いながら、口元のよだれをタオルで拭った。


 トイレの水をおもむろに流す。


 トイレから出てすぐに、さとしは紗栄をハグした。


「良かった! ちゃんとお腹に入ってくれたんじゃん。いやぁ、楽しみだ。天国の空も喜んでるよ。」


 嬉しすぎるようで、ハグをしながら頭をゴシゴシと撫でられた。


 すっと、離れて鼻歌を歌いながら、お風呂場へ行くさとし。


 紗栄はため息をついた。


「ま、いっか。仕事のこととがめられないし、喜んでるんだもんね。」


 独り言をボソッと言って、明日のご飯用に炊飯器の釜にお米を入れて、研いだ。そのまま炊飯器タイマーのスイッチを入れた。


「これでよし。明日は薬局じゃなくて、産婦人科に行こうかな。」


 引き出しから保険証を取り出して、バックに入れた。


「キッチンに、おかゆ! 作っておいたからお腹空いてたら食べて!」


 一度入ったお風呂場のドアを開けて、さとしは叫んだ。


「うん、わかった。ありがとう!」

 
 遠くから紗栄も叫んで返事をする。キッチンの土鍋の中には卵と生姜が入ったお粥が出来ていた。火をつけて温め直していると、紗栄のスマホが鳴った。


 スマホ画面を見ると、裕樹からの電話だった。すぐにスワイプして出た。


「あ、紗栄ですけど…。」


『紗栄ちゃん。今電話いい? 夜遅くにごめんね。』


「いえ、大丈夫です。何かあったんですか?」

 土鍋の火加減を見ながら電話を続けると、紗栄には予想だにしないことを裕樹は話す。

『本当突然で、びっくりするかと思うんだけど、驚かないで聞いて欲しいんだ…。』


 紗栄は持っていたお玉をキッチンの床に落とした。土鍋がグツグツと沸騰している。

「え…それってどういう…あ、う…すいません、裕樹さん、それ、さとしに話してもらえます? 私、今体の調子が良く無くて全部聞けないかもちょっと待って…。」

 紗栄はお粥の匂いに反応したのかまたつわりの症状が出てきた。

 風呂場にいるさとしにスマホを持っていく。


「きゃ、何してるのよ! 入ってこないで!」

 女子のような対応でふざけて言ってくるさとしは湯船で胸を隠すそぶりをするが、紗栄はそれどころではなく、これ出て!っとスマホを慌てて渡す。

さとしは状況を察して冷静になり、入浴を切り上げて、脱衣所へ移動した。紗栄は走ってトイレに駆け込んだ。

「はい、さとしですけど、ちょっと風呂上がりなんで体拭きながら聞きますね。」

 スマホの画面を見ると、『裕樹』と表示されていたため、すぐに対応し、スピーカーに切り替えた。

『あ、さとしくんか。ごめん、紗栄ちゃん具合悪かったんだね。そんな時に申し訳ないんだが…。』

「話って何すか? 俺の仕事、来週じゃなかったですか? それとも、洸のことですか?」

 さとしは体を拭き終えると、タオルをカゴに入れ、引き出しに入っていたお気に入りのカルバンクラインの黒いボクサーパンツを選んで履き始める。

 フェイスタオルを頭につけ、近くに置いていたグレーの上下スエットに着替えた。

『えっとなぁ、どっちかって言えば洸の話になるかなあ?』


「そんな周りくどい話しないで言ってくださいよ。」


『……花鈴が帰ってこないんだ。京都の仕事終わりからずっと…。スマホに連絡しても繋がらなくて。ラインも既読スルーで。』


「え? 京都のこの間の仕事って一カ月も前の話ですよね。帰ってないんですか?え、深月ちゃんは?一緒にいないの?」

『深月と洸は俺と一緒に自宅にいるよ。ずっと一緒にいたけど、花鈴だけこっちに帰ってこない。』


 さとしはご機嫌だった気持ちが一気に冷めた。裕樹は続けて話す。



「え、それで、どうするんですか。」


『事務所にも連絡して、坂本社長にも連絡したんだけど、花鈴の電話には誰も繋がらなくて…それと花鈴と同じに繋がらない人がいるって、もう1人のマネージャーだったんだよね。単発だけど、俺の代わりに引き継いで、頼んだ山岸って男なんだけどさ。もしかしたら、その山岸と一緒なんじゃないかって話で…』

とても落ち込む裕樹。

「え? 逃亡したってことですか? 花鈴はその後の仕事入ってはいたんですか?」

『仕事は1本入っていたのはキャンセルしてたけど、明日、東京の写真スタジオで撮影入ってるけど、行くのか分からない。連絡がつかないから。』

「裕樹さん、何か思い当たることは無いんですか? どこに行くとか…。」


 しばし沈黙が続く。


『無いわけでは無い…ってこっちに帰ってくる前に思いっきり喧嘩してしまって…ね。夫婦喧嘩かな。』



「原因、そこじゃないですか。バリバリそれですよ!なんて言ったんですか。」


『いや、だから、そのー、深月見ながら今回仕事行ってしまったからさ。俺、ずっと深月見なくちゃいけない訳でしょ?そしてさ、深月見るの頑張ってたら、マネージャーの仕事である現場に行くのに遅刻してしまってさ。深月を外出する前にトイレ行かせるんだけど、その後の移動途中でもトイレっていうもんだから連れてったらそれで到着に15分遅刻して…そりゃもう、スタッフさんに叱られてしまって、花鈴は激怒しちゃって。いや、そもそも花鈴も母親なんだからやって欲しいんだけど、化粧ばかり時間かけるから時間かかって……ごめん。愚痴になるよな。』

 裕樹は言いたいことが溜まっていたようだった。そもそも、仕事の現場に深月を連れて行くということが間違ってしまったのかもしれない。やはり、仕事に支障をきたしていた。


「お疲れ様です。確かに深月ちゃん連れながらは無理ありますよ。演者よりも神経使うじゃ無いですか! でもそれだけで花鈴が帰ってこないになるんですか?」

『そ、それだけじゃないんだよね。夫婦ってさ、積もり積もって色々溜まるものあるでしょ? さとしくんも思い当たる節ない?』


 数秒頭で考えて、結論を出す。


「全く無いわけでは無いですけど、我慢するしか無い時もありますね。どちらかと言えば、俺は相手に譲って耐えるタイプなんで…多少の口喧嘩くらいはしますけど。…って、逃げ出したいくらいのことを言ってしまったってことでしょ?」


 さとしはズバリ的いたことを言ってしまった。


『それはそうなんだけど。どこにいるか分からないんでは謝りたくてもできないというか…。話している最後に、離婚したいって花鈴に捨て台詞のように言われたから俺も黙って逃げてきたのも悪かったかな。』


 さとしは考えに考えて結論を出した。


「んじゃ、俺が花鈴の東京の仕事入ってる時に説得しに行きますから、来週の仕事教えてくださいよ。俺と花鈴が一緒の仕事入ってましたよね?」


『ああ、確か、カメラプリントのCMが2人に来てたはず、それは来週の火曜日だよ。』

 バックから手帳を広げてスケジュールを確認する裕樹。

「了解です。んじゃ、その時に、洸と深月ちゃんは誰かに預かってもらいましょう。紗栄はちょっと具合悪いって話なんで、どうにか預け先見つけておきますから。とりあえず、今日はゆっくり休んでください。俺も明日忙しいんで…。」


『分かった。んじゃ、来週よろしく頼むよ。おやすみ~。』


 赤い通話終了ボタンを押した。
 さとしはキッチンに向かうと、土鍋がグツグツと大きな湯気を作っていた。
少し底の方がこげついている。コンロの火を止めて蓋をした。



 紗栄は休憩室でグッタリしていた。



「紗栄、大丈夫か?寝室で寝たらいいんじゃないの?」


 ムクっと体半分起き上がる。



「えー…無理。行けない。フラフラするから。」


「…まったく、もう。うわ、軽っ。」


 さとしは、紗栄の体を持ち上げて、お姫様抱っこして、2階の寝室へ運ぼうとしたら、予想外に体が軽かった。


 食事をまともに摂れない生活が続いているからか、体重が減っていたようだ。


「食べなさすぎじゃない? 食べられるものを食べなさいって前の産婦人科の先生言ってたんだろ?」


「そうは言うけど、自分で用意する体力無いよ…さとしだって、仕事忙しいし。」


「は? 仕事忙しいのは当たり前だけど、なんで何も言わないんだよ。俺一緒にいるだろ休みでも毎日。料理作れる俺いるんだから、食べたいもの言えよ。できる限り用意するから。」


「…うん。」


「そう、素直になれって、怒らないから。辛い時はお互い様だろ?俺が具合悪くて熱出た時、紗栄が雑炊作ってくれたり、果物缶詰とか買ってきてくれたし、今度は紗栄の番。俺は紗栄ほど機転が回らないから言ってくれなきゃ分からない。何でも言って。」


 さとしはベッドに紗栄を寝かせて、紗栄の額に頭をつけた。



「愛してる。」


「うん。私も愛してる。」

 
 軽く額にキスをして、ふとんをかけてあげた。まだ気持ち悪さがあるだろうとさとしなりの配慮だった。

 近くに置いていたビニール袋をベッドのふちにかけた。

「ここに袋置いておくから、気持ち悪くなったら使って。」

さっと起き上がるさとしに

「さとし、まだ寝ないの?」

「いや、寝るけど、下の電気とかエアコン消してきてないから。すぐ来るから待ってて。」

 さとしは急いで下の階の電気を消しに行った。紗栄は少しでも離れるさとしが恋しく感じた。バタンと扉が閉まる。

「寝るか。」

 片手にスマホを持って、充電器にさす。紗栄のスマホも一緒に持ってきて、紗栄の近くで充電器に差した。

「ここ置いておくよ。」

「うん。ありがとう。」

 何気ない優しさが嬉しかった。


 でも、天は二物を与えずで、今こうやって優しい言葉を投げかけてくれても、隣の部屋の洋服ダンスの前にカゴに積み上げられた乾いた洗濯物は山盛りになっていて店の食材は用意出来てもお家用の食材は冷凍食品が多かった。


 かろうじて、コックコートなどの仕事着は業者に頼んでいたため、それは、何とかなる。


 紗栄は全部やって欲しいと言いたかったけれど、我慢した。


 飯作れ、服畳めと具合悪くても言う夫がいると友人の愚痴の話で聞いたことがあった。

まだ、料理を作ってくれると言ってくれるだけで幸せだった。



 そう思うことにした。


 手を繋いで眠りについた。

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