月と太陽

突然の誘惑

 遼平はくるみをぐいぐいと外に出した。

 バタンと扉を閉める。

「あのさ、こういうことされると困るんだけど…。」

「え、なんで? さとし様に会わせてくれるって言ってたじゃない?今がチャンスでしょう。」

「今、お取り込み中。さとしさん、今子ども連れて紗栄さんが帰って来たばかりだから、そっとしておいてよ。」

「え? 子ども?初耳。さとし様に子どもいるの? そんな情報どこにもないなぁ…。」

 おもむろにくるみはスマホを取り出しあらうる情報を検索にかけた。

 なんも出てこない。

「そもそも、公表してないから。広げちゃダメ。結婚してることも言ってないよ。このカフェに勤めるのは公表してるけど…。」

「遼平ばかり、近くにいていろんな情報知っててずるい。私もここで働こうかな。」

 遼平は両手でとめる。

「それは絶対にダメ。就職決まったばっかりだろ?くるみは。大事にしろよ。」

「冗談だよ! せっかく決まった仕事、やめるわけないでしょ!会いたいな~。」

 すると、騒がしいのが聞こえたのかさとしはお店の扉を開けた。

「どうかした?」

 出ると同時にくるみはササっと駆け寄る。

「私、遼平の彼女なんですけど、さとしさんですよね? ぜひ、この色紙にサインをお願いしてもいいですか? ずっと前から大ファンなんです。」

 瞳の色がハート色になっていたくるみ。さとしは、圧を感じつつも、素直にサインを書いた。

「あ、ああー。遼平の彼女なの? 遼平に彼女いたんだね。はい。サインどうぞ。これからも応援よろしくね。」

「ありがとうございます。お子さん生まれたそうで、ぜひ出産お祝いをプレゼントしたいんです。一緒に来てもらえますか?」

 さとしは、遼平に聞いたのかと憤慨しそうだったが、ディナーの仕込みがあったため、断ろうした。

「あ、夕方…。」

 聞いてはないくるみはぐいぐいとさとしの腕を引っ張り、車へと誘った。助手席に座ることになった。
 無理やりだったが、遼平を立てておこうと決めた。

 遼平はくるみに怒りの表情を見せていた。

 助手席のパワーウィンドウを開けて、さとしは言う。

「なるべく、早く戻るから、先に準備やっといて。」

「すいません、くるみが強引に…。」

「良いんだよ、気にするな。」

「さとし様、行きますよ!」

 くるみの運転で車を走らせた。どこに向かうのか、さとしはわからずに車に乗っている。

「遼平の彼女…なんだよね。」

「はい、森野くるみって言います。よろしくお願いします。」

「くるみちゃんね。あのさ、これからどこに行くの?」

 くるみは目的地を決めないまま、車を走らせていた。

「さとしさん。遼平って、紗栄さんのこと好きなのは知ってましたか?」

 声のトーンが急に変わったくるみ。さとし様と言わなくなった。これが本性なのかと鳥肌が立った。

「え?ん? どうした? さっきと雰囲気違うね。」

「遼平は、紗栄さんがモデルやってた時から凄い大ファンで、写真の切り抜きとかファイルにしたり、スマホ待受はずっと紗栄さんで、イベントの追っかけも行ってたんですよ!? それを私に隠してそのカフェで働いてるって言うじゃないですか!どう言うことって思いません??」

「…君は遼平がそんなに好きなんだね。」


「なっ!違います。私と言う彼女がいながら、紗栄さんと一緒に過ごすなんてって…まあ、嫉妬ですけど。」

 恥ずかしそうにそっぽを向く。
 車は誰もいないタイヤ交換や携帯で電話しても良い駐車スペースに停めた。

「素直でいいね。遼平が紗栄を好きなんだろうなと言うのはここに入った時から知ってるよ。俺をファンと言ってたけど、視線はずっと紗栄だったからな。」

「さとしさんは、それでいいんですか?遼平が紗栄さんとどうにかなったりとか考えたりしないんですか?」

運転席からさとしに体を向けて話す。

「別にそれは紗栄が望んだことなら俺は咎めない。人の気持ちを常に同じ方向に向けることは難しいことだから。」

 その言葉にくるみは惚れ直した。やっぱり本物は違うなと思った。

「そしたら、許すってことなんですか?」

「許す…って訳じゃないけど、その時その瞬間、どこを向いてるかじゃないの?君は遼平のことだけ見ていられているのかな?こうやって俺と過ごしてるけど…。」

 くるみはぼーっと黙って一点を見つめる。

「私、今はさとしさんと一緒にいたいんです。」

 マジマジと真剣な眼差しでくるみは見つめる。狭い車で後退りするさとし。

「い、いや、あの…そう言うことじゃなくてですね。」

 迫るくるみ。両手で避けようとするさとし。

「私じゃダメですか?」

 セーターの隙間から見える胸の谷間に誘惑されるさとしは、目を瞑って見ないように努力した。

「俺は今、君をそう言う気持ちで見ていないから。」

 右手を引っ張られ、心臓に当てられる。

「ほら。私の心臓、すごくドキドキしてる。」

「そ、そうだね。」

 離れたいけど、離れられない。
 手荒な動きはしたくない。

まだ会って数時間しか経っていない子を信用も信頼もしていない。

そっと頭をよしよしと撫でた。

今出来る最少で最大のサービスだった。

「ありがとな。」

 ある意味監獄のような状況の車の中。逃げられない。

 頭を撫でられるだけではご不満だったらしく、ぐいっと胸元のシャツを引っ張られ、くるみは大胆にキスをした。

 目を丸くして驚くさとし。そっと体を離した。人は思ってもない所で心動くこともあるのだろう。

 さとしは欲に負けて、そこまで好きでもないのに、体が言うこと聞かない。

制御できずに自然と体が勝手に動いていく。

 流れるまま、車の中でことを済ませてしまった。

 差し出された食材は最後まで丁寧に食べる。

 食事もそうだが、女性を食事として例えることもある。

 結婚したら、釣った魚に餌をやらないとか丁寧に扱わないとか。

 我慢しすぎて開放したいとか。

 人間、欲には敵わないこともあるのかもしれない。

 やってしまってから後悔することもよくある。

 良心の呵責に苛まれるのだ。


 複雑な心境のまま、自分のカフェに戻った。あたりはどっぷりと日が暮れて、カラスが鳴き始めていた。

「おかえりなさい。あと10分で店開けますけど、大丈夫ですか?」

「お、おう。悪い、仕込みは終わった?」

「はい。全部済ませておきました。さとしさん、くるみがなんか変なこと言ってませんでした?」

「あ、ああ。大丈夫、大丈夫。なんとかなったから。そういや、紗栄は?」

 何かをはぐらかすように答える。くるみは気が済んだのか、いつの間にか姿を消していた。

「2階ですよ。陸斗くんと一緒に横になってるって言ってました。」


「おう、さんきゅー。ちょっと顔出してくるわ。って、俺、まだ着替えてないし。」


 さとしは急いで、紗栄の元に走った。
 
 2階に登ると授乳した後すぐに寝てしまったようで、仲良く親子でスヤスヤと眠っていた。

 平和な時間がゆっくりと過ぎる。


 紗栄と陸斗の額に軽くキスすると、コックコートに着替えて、仕事モードスイッチを入れた。

 今日も予約のお客さんや行列が出来ていて、繁盛していた。遼平と目配せしながら、次々と受ける注文に答えていた。
< 57 / 60 >

この作品をシェア

pagetop