「酸素と水素の化合物。分子式H2O。純水のものは無色・無味・無臭で常温では液状をなす……か」

 昼休み、空き教室の隅の地べたに体育座りをして座りこみながら高校二年生の麻衣が読み上げているのは電子辞書で調べた水、という項目だ。

 無色で無味、無臭。特徴がないとも言えるし何にでも染まれる万能なものとも言える。

 ──水みたいなんだ

 そう言って嬉しそうにしていた彼の顔が頭にちらつき頭を掻きむしった。

 むかつく。

 私のことは苦いから緑茶だなんて言ったのにあの子には水だなんて。私が緑茶を嫌いなこと知ってるくせに。

 どんなに悪態をついたって彼はうんともすんとも言わない。そのことが余計麻衣を孤独にさせてため息をついた。

 その時、

「永山さん」

 急にいつの間にか入ってきていた男の子に声をかけられ驚き顔を上げる。

「ねえいる?食べてないでしょ?」

 そう差し出されたのは麻衣の大好きな、いや大好きだったあざみ屋のツナマヨサンドだ。

 麻衣はツナマヨサンドが視界に入らないように意識しながら彼を見る。

 急に馴れ馴れしい口調で話しかけてきてツナマヨサンドを差し出しているのは隣のクラスの────

 圭輔だ。

 確かサッカー部に入っていて割と人気者だったような気がする。

 ただ同じクラスにはなったことがないし喋ったことはないので思い出すのに時間がかかってしまった。

 苗字は知らない。

 確か鈴木だとか田中だとか高橋だとかそんなありきたりな感じの名前だったような、そうではなかったような。全く思い出せない。
 
 なぜ麻衣が下の名前だけは知っているのか。それは麻衣の彼氏、いや正確には元彼氏というのだろうか。その元彼の廉と委員会が一緒ということで圭輔という名前だけは聞いていた。

「結構です」

 麻衣はまた見ていた電子辞書の方へ向き直った。

「そっか」

 彼はそれ以上勧めてくることはなくそのまま麻衣の横に座る。

 彼も麻衣と同じように体育座りをしたかと思えばそのまま前を見続けたまま何も言わない。

 静まりかえってから一分ほど経ち先に沈黙を破ったのは麻衣だった。

「……何で?」

「え?」

 麻衣は電子辞書をパタンと閉じ彼を見つめる。

「何でここに来たんですか、それで何で隣に座り込んで黙ってるんですか」

 今は昼休み。普通ならば教室で昼ご飯を食べている時間。

 こんな最上階の一番奥にあるほぼ物置と化している空き教室になんて来る用事はないはずだ。

 ここで昼休みを過ごすようになって二ヶ月。人が入ってきたことは一度もない。

「うーん、今考えてたことは何でツナマヨサンド食べないのかなって」

「え?」

 意味が分からず聞き返す。

「ツナマヨサンド、大好物じゃないの?わざわざ隣町まで行って買ってきたのに」

「……何で知ってるの」

 確かにツナマヨサンドはこの世で一番好きな食べ物と言えるほど好きだった。

 中でも隣町にあるあざみ屋で売っているツナマヨサンドは絶品でよく買って食べていた。

 もう二ヶ月は食べていないけれど。

「廉に聞いた」

 その名前を聞き麻衣は体を強張らせた。

「廉がよく話してたからさ。その時に言ってたんだよ。明日は遊びに行くからあそこのツナマヨサンド買いに行かなきゃって」

 廉が何を彼に話していたのか話の内容が少し気になったがもう過去は気にしないと決めていた。

「それだけ?」

「え?」

 気を取り直して聞けば彼は何のことかと眉をひそめる。

「ツナマヨサンド。届けに来ただけ?」

 少し圧をかけて言えば彼は慌てたように首を振って言う。

「笹原先輩のことだけど気にしないでいいと思うよ」

 その言葉で麻衣は彼の顔をまじまじと見つめた。

「……何でそのこと知ってるんですか」

「廉から聞いた」

 彼はいつの間にか私のために買ってきたはずのツナマヨサンドに手をつけ始めかぶりついていた。

「でもそれにしてもタイミングが悪いよね……」

 そう彼が言うのは全ての事情を知っているからだろう。

 彼がツナマヨサンドを食べている間麻衣は過去に起きたことを思い出していた。 

 ♦︎

 麻衣と廉はいわゆる幼馴染というやつだった。

 家が隣、幼稚園、小学校、中学校が同じ。共通点が多く中学に上がる頃には付き合っちゃえばいいのにという声が友達から上がるほどには仲が良かった。

 麻衣は廉が何となく自分を好いてくれていることに気がついていた上、告白するよりはされたい派ということで告白されることを待っていた。

 結局高校に入学しても告白してこない廉に痺れを切らして麻衣から告白してしまったが。

 廉の返事はYesだった。

 けれど付き合ってから半年、違和感を覚えるようになった。

 デートをしている間も上の空で教室で話している時もよそ見をしたり話を聞いていないことが多かった。

 その視線の先がどこにあるのかそんなことは時間が経つにつれ自然と分かってしまった。

「笹原先輩ってかっこいいよね」

 探るようにそう言ってしまった事がある。

 その時廉はこう言った。

「かっこいいっていうか綺麗で美しいっていう感じ。水みたいなんだ」

 私は? そう聞いたことを麻衣はずっと後悔している。

「うーん、苦いから緑茶?」

 何それ〜、なんて言って凌いだけれど心の中は全く違った。

 その時気付いてしまったんだ。

 私は笹原先輩に敵わないんだ、と。

 それから少しずつ探りを入れて分かったことは廉と笹原先輩は中学の時から関わりがあったということだ。

 何でも体育委員で一緒だったらしくその頃からの憧れだったらしい。

 けれど廉の語り方からして笹原先輩に恋愛の意味での好きの気持ちを抱いていることは気がついていないみたいだった。

 このまま気づかないてくれれば。

 そう向き合うことから逃げた。

 けれどその日はやってきた。

「ごめん、好きな人ができた」

 適当な理由をつけて誤魔化したりしない人だった。

 そんな所が好きだった。

 話を聞けば半年ほど前に一度告白されたらしい。

「でもほら俺には麻衣がいたし。麻衣は俺なしじゃ無理だろ?」

 その言葉は私の日々広がっていた傷を余計広げた。

「馬鹿にしてるってこと?」

 他に好きな女がいてもどうでもよかったのにこれだけは許せなかった。

 それはあの上から目線の態度が嫌だったのかそれとも子供扱いされたのが嫌だったのか。

 いや違う。

 私が我慢していたのに廉が我慢していたかのような言い方をされたのが嫌だったんだ。
 
 私の方がずっと前から我慢してたのに自分だけが我慢しているような言い方をして私のせいで付き合えなかったみたいに言う廉が急にかっこ悪く思えた。

「もういい。帰る」

 そのもういい、を廉がどういった意味で捉えたのかは分からない。

 麻衣はそのまま廉の静止を振り切り外に飛び出した。

「麻衣!」

 その声が麻衣が聞いた廉の最後の言葉となった。

 ガラガラガッシャン!

 ものすごく大きな音がして目をぎゅっとつむり身を縮こまらせる。

 音が止み目を開けた時そこに広がっていたのは、

「ひっ」

 工事現場から落ちてきた瓦礫の山の下敷きになっている廉と血の海だった。

 そこからは慌ただしかった。
 
 出てきた近所の人の通報で救急車が呼ばれ廉はそのまま病院に運ばれた。

 麻衣は警察に呼ばれただ淡々と事実だけを語った。

 彼との話が終わったので外に出たら後ろから呼ばれた。その次の瞬間には大きな音がして下敷きになっていた、と。

 嘘ではない、ただはしょっているだけだ。

 別れ話になっていた、なんて言ったら面倒なことになる、それくらい分かっていた麻衣は最後まで誰にもそのことは言わなかった。

「麻衣ちゃんも可哀想ね」

「結婚すると思ってたのにね」

 おしゃべり好きのおばさんたちにそう言われても決して事実は言わなかった。

 余計な面倒ごとを起こしたくなかった。

 黙っていることにも廉が死んでしまったことに対しても罪悪感は一切なかった麻衣が罪悪感を抱くようになったのは彼女、笹原先輩の姿を見てからだった。

 彼女は葬式にはそこまで親しくないということで出席はしなかったが後日麻衣が廉の家にいる時に弔問に来た。

 彼女は長い時間手を合わせその間さめざめと泣いていた。

 その姿は────綺麗だった。

 いや綺麗という一言で表してはいけないほど綺麗だった。

 廉が水だと言ったのもその比較で麻衣のことを緑茶だと言ったのも分かる気がした。

 事故には間違いない。ただ廉が死んでしまったのは麻衣のせいなのかもしれない。

 そう考えるようになった。

 あれは仕方のなかったことだ、そう言い聞かせようとしても麻衣が悪かったように思えてくる。

「怖いの」

 突然の言葉に彼は驚いたような顔をしたけれど何も言わなかった。

「お前のせいだって言われてるみたいで」

「……永山さんが殺したんじゃないんでしょ」

「分かんない」

 麻衣は下唇を噛む。

「分かんないの。私がもう少し大人で落ち着いた人ならあんな怒って出ていくこともなかったのかも。そうすればもしかしたら廉は生きていたかもしれない」

「違うよ」

 彼はきっぱりと頭を振る。

「永山さんのせいじゃないよ。そんなこと言ったら永山さんを怒らせた彼の方がよっぽど子どもだよ。永山さんだけが背負うことじゃないんだよ」

 この人なら私の欲しい答えをくれる気がした。

「ねえ」

「何?」

「私のこと飲み物で例えると何だと思う?」

 うーん、としばらく考えれば口に出す。

「ワイン」

「ワイン?」

 なぜワインなのかと首を傾げれば言う。

「大人だから」

 さっきから彼は何で私に欲しい言葉をくれるのだろう。

 あんなに一緒にいた彼はくれなかったのに。

「……大人じゃないよ」

 小さな声で反論すれば大きくかぶりを振った。

「俺からしたら永山さんは十分大人だよ」

 その翌週、麻衣は学校を休んで廉のお墓がある駅へと行く電車に乗り込んだ。

 その左手には一本のオレンジジュースがあった。
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