八月のツバメ

「だって、あの部屋……五年前から時が止まってたもの」
「五年前って、なんの話だ?」
「結花と付き合ってた頃のことだよ」
「!」

 言った覚えのない五年前の話。
 なぜ、つばめが……。
 動揺を露わにする俺を見て、つばめがにこりと笑う。

「私ね、りっちゃんのことが大好きだよ」
 つばめが、ぎゅっとしがみつくように俺に抱きついてくる。
「っ……」
 突然のぬくもりに、突然の甘い香りに、息が詰まり、眩暈がした。

 つばめのことは俺も好きだ。
 たしかに好きだけれど、彼女への想いは……。
 結花への想いとはどこか、なにかが決定的に違う。でも、それがなんなのかが分からない。

「……俺は」

 上手く心情を言葉に言い表せないまま、沈黙が落ちた。
「昔の彼女のことが好き?」
「…………」
 昔の、と言われ、言葉に詰まった。俺はさっとつばめから目を逸らした。
「正直に言ってよ、りっちゃん」
 どんなに愛したって、彼女はもうこの世界にはいない。
「隠しごと、下手なんだからさ」
 でも……。
「……俺は、結花が好きだ。今でもまだ忘れられない」
 つばめがゆっくりと目を伏せる。
「そっか……」

 そして、つばめは突然投げやりな口調で言った。
「あーぁ。作戦失敗!」
「は?」

 立ち上がったつばめは、少しだけ悲しそうに、けれど優しい顔をして俺を見ていた。その表情に、どこか既視感を覚える。

「律ってば、本当に私のこと大好きなのね」

 天気のようにころりと変わった口調と、大人びたその表情。懐かしさが込み上げ、視界が涙で滲んでいく。
「なに……言って……」
「律。私、結花だよ」

 いきなり、つばめが言う。
 今目の前にいるのは正真正銘つばめのはずなのに、その仕草も、口調も、眼差しも、すべてが結花であると物語っていた。

「本当はこの子に惚れさせようと思ったんだけどなぁ。なかなか手強いですね、りっちゃん」

 つばめは腰に手を当てて、茶目っ気たっぷりに言う。

「なに、言ってんだ……?」
「驚いたよね。でも、生きていればこんなこともあるさ」
 意味がわからない。けれど、俺の脳はじわじわと咀嚼を始めた。
「結花なのか……? 本当に?」
 つばめは「そうだよ」と笑った。
 そして、
「突然死んじゃってごめんね」とも。

 眉を下げ、少しだけ口角を上げるつばめ。許してもらえるかが不安で、少しだけ多くなる瞬きまで、全部が結花が謝るときの癖だ。

「なんで……どうして?」
「律は私が死んだあとのこと、ほとんど記憶にないみたいだけど。私ね、臓器を提供したのよ」
「臓器を……?」

 あぁ、そうか。ようやく納得した。ようやく、思い出した。
 あのとき、医師の隣にいたスーツ姿の女性の正体。彼女は臓器移植ネットワークのコーディネーターだったのだ。
 あのときは、結花の死以外のことにまったく目を向けられなかったけれど、よくよく思い返せば、そんな話をしていたような気がする。

 とはいえ、今のこの状況とまったく繋がらないが。

「この体の持ち主……つばめちゃんはね、ドナーだったんだ。生まれつき心臓が弱くて、脳死状態だった私の心臓を移植したの」
 現実味のない話し過ぎて、上手く噛み砕けない。
「律。私、生きてたのよ、この五年間ずっと。体自体はずっと病院の中だったけど」

 つばめは有り得ないことを言っているのに、どこかリアルで、疑う余地がこれっぽっちもなかった。
「……でも、なんでここに?」
「つばめちゃんね、先週亡くなったの。二十二歳だった」

 どくん、と心臓が脈を打った。

「……結花の心臓を移植されたのに?」
「つばめちゃんは本来の寿命より五年くらい長生きできたんだ。でもやっぱり、つばめちゃんの体に私の心臓は負担が大きかったみたいで」

 心臓移植を受けた患者の平均寿命は、手術後五年ほどだという。
 とうとう混乱してきた。
「……いや、でもつばめは今ここに」

 結花が人差し指を口元に持ってくる。子供とは思えない妖艶な表情で、ウインクをした。

「これは、神様がくれた奇跡」
「え……?」
 俺は眉を寄せた。

「つばめちゃんはね、一週間、私に体を貸してくれたの。お互い心残りを解消しようって」
「心残り?」
「そう。つばめちゃんの願いは、カラオケに行って、観覧車に乗って、美味しいものをたくさん食べて、それから、恋をしてみること。外の世界をよく知らないつばめちゃんの代わりに、私がその願いを代行したの。彼女、一度も病院の外に出たことないんだって」
「一度も……」

 心が暗くなる。
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