角砂糖が溶けるように
第3章

3-1 病院にて

 平太郎が運ばれたのは、星城大学附属病院だった。二学期始業式の後の大学見学で地図を見ていたので、場所は何となく覚えていた。

 正面玄関を入って左手に階段とエレベーターがある。
 麻奈美はエレベーターを待っていたがなかなか来ないので、病室が三階なのもあって階段で上った。

 平太郎は何をしたのだろう。
 転んだのか、落ちたのか、刃物で切ったのか。
 それとも、コンロの火が服に燃え移ったのか。

 三階フロアに到着したとき、
「麻奈美ちゃん、こっち」
 その声に一瞬、思考が途切れた。何度も聞いたことがあるはずなのに、昨日も大夢で話したはずなのに。耳に心地よく響くのは、気のせいだろうか。
 慌てて声のしたほうを見ると、やはり芝原が手招きをしていた。麻奈美が駆け寄ると、芝原は病室のほうへ進んだ。

「芝原さん、どうして……休みですか?」
 麻奈美の問いかけに、芝原は頷いた。
 そして、いつものように大夢で勉強していた、と続けた。
「マスターは電球の掃除してたんだ。脚立に乗って」
「もしかして、落ちたんですか」
「そう。僕がやるって言ったのに」
 平太郎の体が弱っていることは、麻奈美も知っていた。本人から話を聞いたこともあるし、三郎やチヨ、それから芝原にもいつも心配されていた。それでも平太郎はいつも無理をして、決して自分から他人に頼もうとはしなかった。

「ここだよ。それじゃ、僕はこれで」
「えっ、帰るんですか?」
「さっきまでマスターと話してたんだ。麻奈美ちゃんと交代」
「そうですか……」

 このまま芝原が去っていくのは寂しかったが、麻奈美には呼びとめておく理由がなかった。いくら大学が休みでも、他に予定があるかもしれない。図書館かどこかへ行って勉強を続けるかもしれない。
 大夢を経営している平太郎が入院している間は、芝原に会えない──。

「あ、あのっ」
 芝原は帰ろうとして、「ん?」と振り返った。
「ありがとうございました」
「お礼なんかいいよ。麻奈美ちゃんにも、マスターにもいつもお世話になってるのは僕だよ。出来ることはやってあげるべきだと思ってる。来年は──」
 そこまで言って、芝原は口をつぐんだ。表情が少し、硬くなった。
「来年? 何かあるんですか?」
 麻奈美は家庭教師の浅岡が言っていたこと思い出した。芝原の過去は一年以内に本人が話す、もしくは麻奈美が先に気づく、と。
 けれど芝原はそれには触れず、「ううん、なんでもない。またね」と、ぎこちない笑顔をつくって足早に去って行った。

 タタタ、と階段を駆け降りる足音はだんだん遠くなり、麻奈美はそれを聞いている間、動けずにいた。頭の中に映しだされる映像では、一人の青年が病院を出てからどこかの家へ向かった。そこは彼の家ではない。玄関のインターホンを鳴らして中から人が出てくるところで暗くなり、続きを見ることはできなかった。
 というより、麻奈美がそれを望まなかった。
 現実世界に意識を戻し、麻奈美はかぶりを大きく振った。
 実際のことではなく、ただの想像に過ぎないけれど。

「麻奈美? いるのか?」
 という平太郎の声が聞こえ、麻奈美はようやく病室に足を踏み入れた。平太郎は個室を希望していて、ベッドは奥の窓際に置かれていた。
「おじいちゃん、大丈夫?」
「はは、みっともないな」
 平太郎は右足を包帯で巻かれていた。壁に松葉杖を立てかけてあるので、左足は何ともないのだろう。

「台に乗る時は気をつけてって言ってたのに」
「ついね、自分でやりたいんだよ。でもこれでわかったよ、私ももう弱くなっている。これからは、誰かに頼むよ」
「うん。そうして」

 麻奈美は椅子に荷物を置き、窓の外の景色を見た。三階なのでそれほど見晴らしは良くないが、病院の中庭の木々が秋模様に着替え始めているのが正面に見えた。
「ねぇ、おじいちゃん。お店はどうするの」
「仕方ない、しばらく休みだ」
 平太郎は少し長いため息をついた。お正月やお盆以外に長期休業することはなかったので、常連客に申し訳ない気持ちでいっぱいなのだろう。
 麻奈美一人では店を開くことはできない。

「すまんが、店の前に貼り紙しといてくれんか」
「どれくらいかかるの?」
「さぁなぁ……二週間くらいで戻りたいけどな」
 それから、隣の家に住んでいるチヨには麻奈美が伝え、三郎にはチヨから電話をしてもらうことになった。
「そうだ麻奈美、もし店に行きたかったら行っても良いぞ」
「えっ、でも、何も出来ないんでしょ?」
「そりゃそうだ。もし足が向けば、裏から入りなさい。たまに掃除も頼むよ」
 平太郎から裏口の鍵を預かり、しばらく話をしてから麻奈美は病院を出た。
 学校には早退届を出しているので、そのまま帰宅した。
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